鐘化硬式野球部

高砂の出汐館2階に硬式野球部およびラグビー部の資料館が2021年6月に完成したことは鐘華84号でお知らせしたとおりです。 84号でラグビー部の歴史を紹介しましたが、 85号では、妹尾忠弘・児島敏夫・高塚昌倶・片岡成夫・千家敬麿の5名の方により、関係者から提供された資料などにもとづいて 「野球部の歴史」をまとめていただいた内容を掲載いたしました。このページではその内容に加え、紙面の都合で掲載できなかった展示物についても 紹介します。 (高砂支部編集委員記)

目次

◎カネカ(鐘化) 硬式野球部の歴史

黎明期~第一期黄金期~*戦後15年 鐘化野球部の選手達  妹尾忠弘(旧姓 松本) ↑目次↑

中司会長と共に 昭和32年7月

第12回サン大会優勝昭和30年3月

まるで古文書 横長巾40cm×長さ2.5m(昭和21年入社17名~昭和36年)。 この間、延べ91名の野球部員中83名の公式戦、打撃成績表が手元にある。それも全てが手書きである。 故木下誠三が集約、生前に託された小生が保管していた。 昭和21,22年鐘紡高砂野球部創立直後の新入社部員が昭和22年に早々と第18回全日本都市対抗野球準優勝。

尾西信一・加藤俊夫・ 高橋敏・深瀬達郎・伏見甚吉・三国純・辻正男・金田美儒男・田尻譲・伊田茂】 他8名の今は亡き長老達が大活躍。 素晴らしい記録である。

昭和30年全鐘紡に敗れたが、都市対抗2度目の準優勝。快速山本治投手・好投手中川八郎・強打の河田清・松原正夫・ 木下誠三・石田侃・木村廸夫・山本隆・児島敏夫・宮脇由明・松本忠弘 他全員が良く打った。大先輩に敗けない輝かしい記録となる。 強打の鐘化高砂~鐘化カネカロン時代である。サン大会優勝、産業別大会優勝、強豪チームであった。

しかし昭和32年の都市対抗では日鉄二瀬との対戦で、鐘化は記録的な屈辱を味わう。村上俊介投手に史上初の完全試合を達成された。 しかも9回最後の打者は松本、小生であった。帰高して1カ月後本社電線部に転勤辞令、自らも野球生活最後の打席となった。 そしてこの打席を覚えているバットとスパイクシューズが残された。

当時の中司清社長と共に喜ぶ都市対抗出場祝賀会の選手など多くの写真と共に上記打撃成績表や当時の野球用具等が野球資料館に飾られている。 多くの野球部員全ての名前を今は記す余地がない。 高砂資料館で確かめて欲しい。 昭和52年鐘化野球部の歴史は寂しい終末を迎える。明るい日々が消えて40数年、閉幕式での高砂市民の涙が今も忘れられない。 OB会名簿によると177名の方々のお名前があり、既にかなりの方が鬼籍に入られているものと思われる。多くの選手達の生前を偲んでいる。

休部の危機を乗り越え・・・・*「業績悪化で休部」の危機!   児島敏夫 ↑目次↑

昭和32年入社、6年間選手としてプレー後、昭和38年に監督に就任。その直後に工場長に呼ばれ「会社の業績が悪いので野球部を休部する」 と通告された。当時ベストセラーとなった、占部某の「危ない会社」という本で、鐘化は2番目に危ない!と書かれる程の危機的状況だった。 今ではその時代を知る人は少ないかも知れない・・・。 しかし、監督としての責任感と野球への意欲、選手達への想い等から「何とか野球部を続けさせて欲しい」と執拗にお願いをし続けた。 その結果約一か月後に「大幅に縮小し合理化する事」を条件に、最後は中司清社長の一声で継続の承認を得る事が出来た。私にとって生涯忘れる事の出来ない、正に必死の交渉だった。

という厳しい条件ではあった。業績復活に向け必死な社内の雰囲気の中、監督としての3年間は肩身の狭い精神的にも苦痛苦闘の連続だった。

昭和40年秋の産別大会後楽園出場を最後に監督を退いたが、その数年後には会社は社員一丸の懸命な努力が実り苦境を脱却、 業績は急上昇。野球部も昭和42年から6年連続都市対抗出場、昭和50年には日本選手権優勝という偉業を達成した事を思うと、 あの努力がお役に立ったのだ!と感無量になる。また「泥臭くても決して諦めない不屈のカネカ精神」が芽生え伝統となった時期だった事も思い、 9年間の鐘化野球部時代は満足感で一杯である

名門カネカ野球部の復活*第二期黄金期(昭和50年日本選手権優勝) 千家 敬麿 ↑目次↑

都市対抗予選甲子園昭和45年頃

日本選手権優勝S50年

昭和37年から5年間叶わなかった都市対抗野球大会出場は、昭和41年から就任した高塚8代目監督の2年目昭和42年に実現。以降6年連続出場を 含め11年間で8度の出場、昭和50年の日本選手権大会では優勝と第二期黄金時代を迎える事となる。 この輝かしい第二期の礎を作ったのが高塚昌倶(法大)8代監督なのは後の「当時の選手達のその後の野球界での活躍」が証明している。

昭和35年に東京六大学で共に活躍した高橋秀典(慶大)と共に昭和35年に期待されて入社したものの、会社の業績悪化に合わせるかの様 に都市対抗出場は7年間で1度だけと、チームとしては悔しい思いの野球部時代を経験した。 その無念さと自ら2年連続住金の補強選手として活躍した貴重な体験が、野球に取り組む厳しい姿勢となった。

等々、ひと言で表現すると「野球に打ち込む情熱の人」だった。4年連続都市対抗出場を果たし昭和45年退任。 その後中村裕治9代目監督(昭和46年~48年) 大河賢二郎10代目監督(昭和49年~52年)と「カネカ野球」として引き継がれ、50年の日本選手権優勝で結実した。

過去の思い出と今も続く野球部の絆 目次

*過去の新聞掲載談話及びOB各位からの手紙 過去の新聞に掲載された談話、今回の機会に寄せて頂いた手紙等から、一部を省略、添削等をして紹介致します。

◎高塚8代目監督の談話

(昭和45年6月24日都市対抗西近畿第一代表決定時) 「今年は監督になって4度目の晴れ舞台、今まで優勝など縁遠いと思っていましたが今回は戦力に自信が持てる・・ 投攻守にこれといった穴が見当たらない・・野球生命を賭ける意味でも望みを大きく持って・・(後略)」

◎中村9代目監督の談話

(休部・後に解散・の悔しさ無念さについて) 「社会人野球のメッカである後〃後楽園出場〃を合言葉に激しい練習に耐え、着実に実績を積み重ね更に飛躍を誓っていたが・・ カネカ野球部は終わりを告げた・・その間高校野球の監督も数多く輩出・・少年に夢と希望を与え・・(後略)」

◎大河10代目監督の優勝談話

日本選手権大会は無欲で臨んだ。優勝した瞬間 "やっと結果を出せた"という安ど感一杯だった。エリート集団でないチームが 優勝した事で、カネカの伝統【素質ではヒーローになれない、努力がヒーローを生む】が実践出来た。(後略)。」

◎片岡成夫主将談

私は昭和43年秋季近畿大会優勝が忘れられない。同年の都市対抗優勝の広畑、40年優勝の電々近畿、昭和40年41年連続準優勝の 住金に、強豪の日本生命、松下電器、東レ等の中での優勝がチームの自信となり昭和45年都市対抗の優勝候補となるまでに」。

昭和45年・・「優勝候補として強豪河合楽器、電々近畿を大差で連覇、勢いに乗る半面緩みが出たのか準々決勝でエース谷村がKOされ サッポロビールにあっけなく敗れトーナメントの厳しさ怖さを思い知らされた」 「現在も忘れずに心にしっかり残る教育の場としての寮(克己寮)生活。会社勤めに欠かせない精神、心構え等の大切ないろはを教わった。 今の私があるのも、厳しいが人として温かみのある寮生活でじっくり育てて頂いたお蔭で(中略) 、先輩達が夕食後の個人練習で しっかり目標を持って取り組む姿勢、すなわち努力する大切さを教えられ(中略)・・「ラッキーなプレーでヒーは出ない」とも教わった」。
(注) 克己寮 (硬式野球部の寮;己に克つ寮とし命名)

OB各位からの手紙 ↑目次↑

野球部OB会 2012年9月

◎高畑忠善

昭和37年に2年連続甲子園出場の誇りを持って入社したが、すぐに厳しい社会人野球の荒波に立ち向かう事となった。そんな私を 指導頂いたのが河田監督「野球人である前に社会人であれ」、小島監督「努力の大切さ」、高塚監督「勝負に勝つ心構え」。この方々や 多くのチームメートと共に「鐘化野球」を体験し、得た教訓が今の自分の原点。感謝しかない。

◎谷脇一夫

鐘化退職し母校(高知商)の監督18年、その間甲子園夏9回、春5回出場し25勝。 春の優勝・夏の準優勝・神宮大会準優勝・国体優勝、 の成績を残せたのは、鐘化でアマチュア野球の原点を学んだ事が大きかった。 監督自らグラウンドの石拾い、雑草取り等グラウンドを大切にする心、先輩からは朝、夜に努力する姿を見て学び、高校の指導者になっても それが原点になりました「素質ではヒーローにはなれない、努力がヒーローを生む」を実践しました。鐘化で学んだ事・・、勝つ為の厳しい練習、 これが原点です。感謝しています。

◎下川武次郎

スタミナ不足、体幹、技量不足で苦節2年で終焉を迎えた。会社に残り製造員として働きながら軟式野球で全国大会出場、 地元高砂高校の監督を経験したが、先輩達の甲子園の活躍を観るに、メンバーに加わりたい欲望が芽生え、低迷していた母校のコーチを 引き受け97回夏の甲子園に山口県代表として出場できた事が誇りである。振り返ってみるに、たかが2年されど2年、お世話になった事が人生の全てである。

◎村上省吾

野球部はS52年11月に休部となり復活を期待していましたが夢が叶う事はありませんでした。しかし年一度のOB会及びゴルフコンペと 親睦を続け、令和3年で42回を重ねています。遠くは東京、高知等から参加され昔の話に花が咲いています。野球部の絆は 延々と受け継がれおり、この会を永遠に継続して参りたいと思っています。

◎鐘華会員ではありませんが、寺尾郁夫、佐藤治夫春夫、大川賢二郎、宮田真、渡辺博、米田司の6氏からも(手紙)が来ています。紙面の都合上、お名前だけの紹介とします。

≪後記≫ ↑目次↑

「硬式野球部資料館」開設に感謝。 昭和24年9月、鐘淵化学工業(株)創立、同時に鐘紡高砂野球部を引継ぎ結成された鐘化野球部、それから昭和52年の休部に至るまでの28年間の野球部の歴史を 短文で纏める事はやはり不可能だった。纏まりは無いが、せめて歴史の一部だけでも残したい、その良い機会を頂けたとの思いで多くの方々にご協力を頂く事になった。

先ずはこの度野球部OB皆の長年の想いだった「カネカ野球部記念館」を新設して頂いた高砂工業所長をはじめ経営幹部の皆様に心から御礼を申し上げます。 このカネカ野球部の歴史を振り返ると、今年輝かしく73周年を迎えるカネカの長い歴史の中で、創立時の苦しみから這い上がり何とか成長に向かおうとする 時の28年が理解できる。会社が正にその苦難の時代に、我が野球部は懸命に生き残り日本を代表する名門カネカ野球と言われるまでになった。

「何が有ってもへこたれない雑草の逞しさ、全社一丸」が今の(株)カネカの伝統に繋がったのだとしたらこの上ない幸せである。 (文責 千家)

展示のようす ↑目次↑

都市対抗準優勝報告会高砂神社にてS30.8

S50年日本選手権優勝

応援歌 高砂の精鋭