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本年の改訂履歴

2022/1/17 初回改訂
令和4年 活動方針
2022/6/15 第二回改訂
鹿島支部ゴルフ会
2022/6/18 第三回改訂
第7回ボウリング大会
2022/8/31 第四回改訂
新独身寮見学
鹿島支部便りNo20

こちらは鐘華会 鹿島支部の会員投稿ページです

会員や鹿島に関係する色々な情報についての投稿記事をお寄せください。

鹿島神宮の話 (其の六) 松尾芭蕉、小林一茶も来訪

鹿島神宮の近くの根本寺の仏頂和尚は、鹿島神宮との土地争いで幕府に訴えるため、 江戸に滞在していましたが、近くに芭蕉庵があって芭蕉と懇意になったそうです。

鹿島に戻った仏頂和尚から月見の誘いがあり、貞亨4年(1687年)芭蕉は曾良、宗波を伴い、鹿島を訪ねています。

この時の様子は、芭蕉が鹿島紀行という文書に書き残しています。

根本寺での句
『月はやし梢は雨を持ながら』
『寺にねてまことがほなる月見かな』
鹿島神宮での句
『此松の実ばえせし代や神の秋』

また、小林一茶も文化14年(1817年)に訪れており,
『大地震(おおなゑ)にびくともせぬや松の花』
 

という句が要石の傍に掲示されています。

その他万葉集には、防人(さきもり)に行く人が鹿島神宮に祈願した歌が残されています。

『霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらみくさ)に我は来にしを』

これらの歴史を踏まえて、境内には投句箱が設置されていますので、俳句又は短歌を作ってみてはどうでしょうか?

奥の宮前の芭蕉の句碑

小林一茶の句

万葉集の防人の歌

根本寺

鹿島神宮の話 (其の五) 徳川家康、秀忠、頼房、光圀

その昔は、伊勢神宮と同様、鹿島でも式年遷宮をしていたと云われていますが、 今の鹿島神宮の建造物は徳川幕府の寄進した物が残っています。

まず、関ヶ原の戦いに勝利した家康が、戦勝のお礼として1605年本殿を建てています。 この建物は、今は奥の宮に移されていますが、これは二代目将軍の秀忠公が東照宮を建てた後直ぐの1619年に今の本殿・仮殿を寄進したことにより移築されました。 そして入り口側の楼門は、水戸藩の初代藩主・頼房公が1634年に寄進したものです。

その子の水戸黄門・光圀公は、建物は残していませんが、次のような逸話が残されています。

鹿島神宮には、万葉集で「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」と詠われている有名な要石があります。

見えているのはホンの一部だけで、地中深くまで続いているといわれているのを、 光圀は七日七夜かけて掘って確かめようとしたが、翌朝には元に戻ってしまって諦めた、ということです。

その要石は、ナマズの頭を押さえて、地震の被害を小さくしてくれています。

 

鹿島神宮の話 (其の四) 中臣鎌足は常陸鹿島の生まれ(?)

大化の改新でお馴染みの中臣鎌足は、鹿島の生まれと言われており(大鏡)、 鹿島神宮の近くに鎌足神社があって、そこが生誕地と伝わっています。 その鎌足の子孫・藤原氏が鹿島の神様の分霊を白鹿に乗せて、 一年掛かりで奈良までお連れし、祀った神社が春日大社です。 その時通った跡が、東京の鹿骨などに地名として残ったということです。

春日大社は四神を祀っていますが、第一神が鹿島の武甕槌命、第二神が香取の 経津主命であり、遠い昔から東国の鹿島・香取神宮が重視されていたことが窺えます。 第三・第四神は枚岡神社から天児屋根命・比売神を迎えています。

中臣氏はもともと神官の役割を担っており、鹿島では郡司や神官として 主要な地位を占めていたと云われており、中央とも繋がりがあったようです。

それにしても、春日大社の神様と鹿が鹿島神宮から来たとは、ほとんどの方はご存じなく 驚かれます。ただ、鹿島の鹿は放し飼いではなく、柵の中の二三十頭だけですが、 神の使いとして大切にされ、今では鹿島アントラーズの名前の基になっています。

 

鹿島神宮の話 (其の三) 剣豪・塚原卜伝は神官の息子

鹿島神宮といえば、塚原卜伝です。NHKテレビのドラマで見られた方も多いと思いますが、鹿島神宮の神官・吉川家の次男として生れ、塚原家の養子になりました。 武道場には「鹿島神宮」の掛け軸が掛けられていることが多いように、鹿島は武の神様であり、神官は昔から武道に励んでいました。

吉川家は鹿島の太刀・鹿島中古流という剣法の継承者で、卜伝も小さい頃から剣の修業をしていて、宮本武蔵との『なべぶた試合』の逸話で有名です。ただし、卜伝が亡くなった後に武蔵が生まれており、この話は史実ではないようです。

16歳で廻国修行に出た卜伝は、生涯で真剣勝負を19回戦い、一度も負けていません。そして鹿島神宮の森で千日修行を行い、神の啓示を受けて悟り、「心を新しくして事に当たれ」として一つ太刀・鹿島新當流を完成させたといわれています。 その後の廻国修行中に、将軍足利義輝・義昭や伊勢の北畠具教、武田信玄の参謀・山本勘助などに剣術を指導しています。

鹿島の塚原城に戻った卜伝は、1571年に亡くなっており、その墓は鹿島神宮から数キロ北に残っています。

なお、NHKのドラマが撮影された場所が神宮の中に何箇所かあります。その中に出てきた「物忌(ものいみ)さま」は神様に一生使える女性で、江戸時代までは実在していました

 

鹿島神宮の話 (其の二) 神武天皇を助け、大国主命に国譲りを迫る

鹿島に武甕槌大神が祀られたのは、神武天皇の一行が九州から熊野にいたり、にわかに病に倒れたとき、武甕槌大神がフツノミタマノ剣を使いのタカクラジに持たせたところ、その霊力で神武天皇は起き上がり、 熊野の荒ぶる神を切り倒した、という神話がありますが、神武天皇が即位の年にこの神恩に感謝して祀られたのが始まりと言われています。

この神話の年代をそのまま採用すると、紀元前660余年に始まることになりますが、実際は4~5世紀頃ではないかと見られています。

またこの神様は国譲りの三度目の使いに立ち、出雲の稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫り、大国主命に承諾させた、と云われています。 このとき、大国主命の息子の健御名方神と力比べ(相撲)をして勝ち、負けた健御名方神は諏訪まで逃げて諏訪から出ないということで許された、という話になっています。 その後、武甕槌大神は関東・東国の開拓のために鹿島を本拠地としました。その為、珍しいことに鹿島神宮の社殿は北向きに建てられています。

以上のようなことから、平安時代に書かれた延喜式では、伊勢・香取と並んで三社だけが神宮という称号で呼ばれることになりました。 なお、常陸風土記によると、約1300年前に二代目のフツノミタマノ剣(?霊剣)を鹿島の浜の砂鉄で作ったとあり、現在神宮の宝物殿にある国宝の直刀がそれです。 長さ約3mもあり、一見の価値があると思います。また、本殿の真後ろにある杉が樹齢約1300年の御神木です。

鹿島神宮の入り口
東日本大震災で鳥居(石造)が倒壊してありません
境内の杉の大木を切り制作中で、平成26年完成予定

拝殿と本殿
(後ろの工事中の建物:檜皮葺屋根などの修理中)

鹿島神宮の話 (其の一) 関係する歴史上の人物

 

鹿島工場に関連のある方で、鹿島神宮に参拝された方は多いことと思いますが、意外とその歴史は知られていませんので、順次ご紹介します。

平安時代の延喜式で、三千社余りの神社の内、神宮という名称が使われたのは、伊勢、鹿島、香取の三社だけだったということをご存じでしょうか。 鹿島の神様は「武甕槌大神」で、古代でいえば大和の国の辺境にあるため、 関西の人にとってはなじみの薄い鹿島神宮ですが、意外と歴史上の有名人と関係があるのです。

名前だけ列挙すると、神武天皇、大国主命、神功皇后、源頼朝、塚原卜伝、徳川家康、徳川秀忠 、水戸黄門、東郷平八郎、親鸞聖人、松尾芭蕉などです。それから無名ですが、防人も大いに関連があります。 現在、鹿島神宮ではボランティアの「鹿嶋ふるさとガイド」がこれら歴史上の話を紹介しながら、 希望者に境内を案内しています。一人でも団体でも無料で案内しますので、一度頼んでみたら如何でしょうか。

次回から、もう少し詳しい話をご紹介します。