<<

高砂支部ホームページ

 リンク先:(下記テーブルに示す箇所をクリックするとクリックしたエリアにリンクすることができます)

  高砂トップページ へ  高砂支部だより(支部役員名簿や行事予定、その他連絡事項)
 2.高砂支部同好会活動の内容(活動予定及び直近の活動報告を記載)
世話人名簿 囲碁・将棋 ウオーキング グラウンド・ゴルフ
ゴルフ ハイキング カラオケ 文化展
 ネットワーク便り (各部門内での行事予定【職場OB会】等々の連絡及び実施事項等)
 4.高砂文庫(寄稿コーナー:近況報告、紀行文、エッセ-、詩、短歌、俳句、ノンフイクション等々
 5.故郷たより(ふるさと便り:会員が居住する地域社会での出来事や歴史等の紹介)
  

ふるさと便り(寄稿欄)

高砂支部会員が居住している地域社会での会員に関わる出来事や、ふるさとの名所・旧跡、歴史等を会員の寄稿により紹介するコーナーです。
 
応募先は、鐘華会の機関誌「鐘華ニュース」の最終ページに記載されています高砂支部の鐘華編集委員のメールアドレスか若しくは、このHP管理者にワードで記載し、写真は拡張子.jpegて寄稿して下さい。

寄稿日:平成26年9月17日(水) 寄稿者:叶 敏次 神戸だより第13報:「長田神社

(下記写真はクリックしますと拡大写真を見ることができます。
また、拡大写真をクリックしますと元の写真に戻ります)

 1995年に発生した阪神淡路大震災によって神戸の中心街は一瞬にして廃墟と化してしまいました。長田地区も例外ではなく大きな被害を受けました。特に長田では、地震直後に数カ所で同時火災が発生し、同日中に20件近い火災が猛威を振るい、一帯が焼け野原となりました。
 長田神社も本堂と庫裏が崩れ、山門が傾き、また正面と東側の御影石の鳥居が崩れました。しかし近所まで迫った大火から難を逃れることが出来、被災者の避難所として使われました。
 現在の正面鳥居は伊勢神宮から寄贈された檜造りの鳥居になっています。初詣には多くの老若男女が神宮より頂いたこの鳥居をくぐり、一年の幸を頂くそうです。
 長田神社の由緒書によると、201年(皇紀861年)神功皇后が三韓征伐の後、新羅より帰還中「武庫の沖」で船が進まなくなり占ったところ、事代主神(ことしのぬしのかみ、大国主神の息子)より「吾を長田國に祀れ」との神託を受け創祀されたのが始まりと言われています。


長田神社本殿  長田神社全景
伊勢神宮より頂いた鳥居 恵比寿様(事代主神)と父神の大黒様
長田神社社務所 菊の御紋の提灯 東側の鳥居 右手が大クスノキ
周囲約6mと約5mの二本のクスノキの根が融合している 神社前の商店街
皇紀2600年の記念石碑  区民の憩いの場となっている大クスノキ

長田神社と同じく三韓征伐の帰途、神戸港で船が進まなくなった為神占を行ったところ、稚日女尊(わかひるめのみこと、天照大神の幼名とも和魂とも妹神とも言われている)が現れ、「吾を生田の地に祀らしめ」とのご神託があったとされ、これが生田神社の始まりとされています。
 西宮の廣田神社にも全く同じような由来が伝えられています。三韓征伐の帰途、難波の港の目前で船が進まなくなり、仕方なく兵庫の港に向かいました。神意を伺うと、「天照大神の荒魂が皇居の近くにあるのは良くない。廣田国に置くのが良い」とのご神託があり、その荒魂を祀ったのが廣田神社の始まりだそうです。 調べてみると、高砂工業所の守り神(?)の高砂神社にも同じような社伝が残っています。
  神功皇后の西征(三韓征伐)は大己貴命(おほなむちのみこと、大国主の別名とも言われている)の加護によって果たされ、その凱旋の際に、大己貴命の「鹿子の水門(かこのみなと)に留まる」との神託を受け、神功皇后の命により大己貴命が当地に祀られたことにより創建されたのが始まりだそうです。
  高砂神社、長田神社、生田神社、廣田神社ともに神功皇后の三韓征伐に纏わる神託によって創建されました。高砂神社と長田神社は元々葦原中國(あしはらなかつくに、日本国)を平定した側の神様(出雲大社)を祀り、生田神社と廣田神社は出雲の神様から国譲りを受けた皇室の祖神天照大神(伊勢神宮)の系列をお祭りしていると言う大きな違いがあるようです。
 高砂神社の御祭神「大己貴命(おほなむちのみこと)」が大国主神の別名であれば、長田神社の御祭神である事代主神はその息子に当たるので、高砂神社の方が格上になるんでしょうか? 一度高砂神社の宮司に聞いてみたいものです。いずれにしても神話の時代の話ですが。
 長田神社の御祭神である事代主神は俗に「えべっさん」とも言われ、商工業をはじめ、あらゆる産業の守り神として崇敬されており、また古より皇室とのつながりも強い神社です。

神社前の大鳥居  大鳥居の西側にある美味しい寿司屋

高砂トップページへ