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ふるさと便り(寄稿欄)

  高砂支部会員が居住している地域社会での会員に関わる出来事や、ふるさとの名所・旧跡、歴史等を会員の寄稿により紹介するコーナーです。
  応募先は、鐘華会の機関誌「鐘華ニュース」の最終ページに記載されている、高砂支部の鐘華編集委員のメールアドレス、 若しくは、このHP管理者に、ワードで記載し、写真は拡張子.jpeg にて寄稿して下さい。

 寄稿日:
  令和元年10月15日(火)
共同執筆:倉掛一夫
       宮本和夫
 カネカ高砂工業所ゆかりの街
         「みなとまち高砂」の散策

(下記写真はクリックしますと拡大写真を見ることができます。
また、拡大写真をクリックしますと元の写真に戻ります)

カネカ高砂工業所ゆかりの街「みなとまち高砂」の散策

1.概要

  カネカ高砂工業所ゆかりのみなとまち高砂は、明治34年に三菱製紙、40年に鐘紡を誘致して、この2大工場によって工業都市として発展してきた街である。 現カネカの前身である鐘淵化学工業は、昭和24年9月に鐘紡から独立して設立された。 昭和52年(1977年)までは、高砂町にはこの鐘紡とカネカの両工場が稼働していた。

  平成30年(2018年)5月に高砂市が北前船寄港地・船主集落の構成文化財として追加認定されたのを機に、久しぶりにカネカ高砂工業所のゆかりの地、みなとまち高砂を、 生まれも育ちも高砂町でカネカOBの二人で駅前のレンタルサイクルで散策してみました。

1)現在のカネカ高砂工業所



1-カネカ高砂工業所正門


2-カネカ高砂工業所西工場正面入り口

  カネカ高砂工業所の正門には、私の時代にはなかった自動倉庫が門前にその威容を見せている以外は変わりがない。 その後、平成20年(2008年)に、隣接した旧武田薬品高砂工場をカネカ高砂工業所の西工場として併合した。 この西工場の玄関口の様相も併合当時とは一変して近代的な建物がたっている。



3-高砂公園(鐘紡高砂工場跡地)


4-高砂町の本町通り

  カネカの前身である鐘紡高砂工場の跡地は、元正門付近が高砂公園として、そのまま残されていて町民の憩いの場となっている。 また、その他の土地には高砂南高校が建設され残りの土地は、鐘紡の鐘をとってベル・タウンと命名され分譲地として売り出され 新しい住宅街として高砂町の人口増及び人口定着に寄与している。

2)生まれ故郷高砂町の文化とカネカの交わり

  高砂町のメイン通りである本町通りは、昭和30年代そのままで、現在も外見は、あまり変わっていない。 しかし、時代と共に、ほとんどの店は閉店を余儀なくされ大型商業施設の西友が立つに及んで、 銀座通りの商店は全滅に近い、文字通りシャッター街と変わり果てた。 しかし、町のところどころに歴史が息づいており、 また高砂神社を中心とした800年の歴史を有する行事も脈々と受け継がれている。

  カネカと高砂町の市政及び高砂文化との交わりは深い。その内の文化方面での交わりの一端を紹介します。 高砂町ではカネカからの寄付を原資として、文化財の移築復元(申義堂)や高砂町民の為のコミュニティ―センターの新設等を行っており、 一方、カネカは地域社会の一員として高砂神社の秋の大例祭に社宅挙げて参加しており、 また工業所の夏祭りを高砂町民に開放するなどして70年間高砂の人々と交流しながら高砂の街と共に歩んできており、 今なお地域に密着した地道な活動を続けている。



カネカの寄付を原資としている5-申義堂と6-コミュニティ―センター

  申義堂は江戸時代(1804~1818)に姫路藩の家老河合寸翁の建議によって庶民教育を行うために設立した学問所で、 その後、明治4年(1871年)に廃校となって、その後身は、高砂小学校へと受け継がれている。 筆者ら二人の高砂小学校の卒業生にとって縁のある申義堂でもある。

  当時は北本町の現コミュニティ―センターのある場所に建てられものを、移設再建したものである。 移設費用とそのあとに新しく建設されたコミュニティ―センターの新設費用等は、 いずれもカネカの寄付を原資としている。

  また申義堂の敷地内には、北本町の岸本家の茶庭にあったもので姫路藩主池田輝政ゆかりの品と伝わっている 江戸時代の織部灯籠も(キリシタン灯籠ともよばれている)移設されている。



7-高砂神社の秋祭り


8-高砂町民と一緒にカネカ夏祭り

3)郷土の偉人、工楽松右衛門に触れる

  高砂町は、狭い町ながら工楽松右衛門(東宮町)、天竺徳兵衛(船頭町)、美濃部達吉(材木町)、河合義一(藍屋町)、大西唯次(北本町)等々、 多くの著名人の生誕の地でもある。

  海運業者であり「松右衛門帆」の発明者でもある工楽松右衛門は、港湾土木技術者でもあり、広島の鞆の津、函館港、遠くは択捉島港等の改修を幕府の命により実施している。 その旧宅は江戸時代の後期の建物で、今も高砂の南堀川の船着き場の前にある。 1階は、通り庭に井戸や炊事場があるほか9部屋あり、2階は7部屋ある。

  この旧工楽邸と堀川を拠点に北前船航路を語る重要地として2018年5月に北前船寄港地・船主集落の構成文化財として 日本遺産に認定された。

  北前船に松右衛門帆を立て勇壮と日本海の荒波を乗り越えて酒田、新潟、そして北の大地松前、小樽等々と交易して 郷土高砂に寄港してきた海の男たちのロマンに思いを馳せながら工楽邸旧宅を見学し一路、 初代松右衛門の銅像がある高砂神社へと向かう。



9-日本遺産認定祝旗


10-高砂川⇒堀川⇒高砂東港へ通じる


11-工楽松右衛門旧宅


12-工楽邸旧宅東面


13-工楽邸内部1階玄関土間


14-おくどさん(江戸時代後期)

  この旧工楽邸の2階には、高砂町の古い写真も展示されており、 往時のカネカ高砂工場や海水浴場の懐かしい写真も展示されている。



15-カネカ高砂工場より向島方面を望む


16-イースト課と食堂(ドーム屋根)か?

  初代工楽松右衛門(1743~1812)は、高砂の東宮町に生まれ、若くして兵庫の津に出て船乗りになる。 のちに、御影屋という海運業を営む。

  工楽家は近代には、砂糖の問屋など営みながら、棟方志功などの文化人と交流し居宅は文化サロンの場となっていた。 松右衛門の銅像は、高砂神社境内にある。

4)思い出満載の高砂神社

  高砂神社のご祭神は、大己貴命(オオナムノミコト)、素戔嗚命(スサノオノミコト)、奇稲田姫命(クシナダヒメノミコト)で、 その起源は、古く約1700年前に神功皇后が新羅より凱旋の途中に当地に停泊し、 国家鎮護のために大己貴命を祀られたことが創建とされる。

  その後、戦国時代(慶長6年=1601年)に、姫路城主の池田輝政が高砂城をこの社地に築城した。 元和元年(1615年)に廃城となった後、江戸時代に入り(寛永2年=1625年)当時の姫路藩主である本多忠政が再び当社を高砂城跡に遷座して、 現在に至る。



17-初代工楽松右衛門の銅像


18-松右衛門帆のカバン

  「松右衛門帆」とは、木綿糸を縫い合わせた刺帆と異なり、特製の太い木綿糸を撚り縦・横糸を2本ずつで織られた帆布。 その製法を広め「松右衛門帆」の名前で日本中全ての廻船で用いられるようになった。 現在は、その特徴を生かし、かばんや帽子など制作し販売している。



21-高砂神社の新設能舞台

19-,20-常夜灯(寛政十一年)

  境内に在る古い能舞台は、解体して西南に新設された。この原資としてカネカは高砂工業所として500万円を寄付している。 その他、工業所の多くの職場が、職場単位で清財を募り再建に協力をしたことが銘板に刻まれている。 文化財の移設やコミュニティ―センターの新設等々、これら一連の寄付行為に対して、 カネカ高砂工業所は令和元年7月に高砂市より頌志賞(しょうし)が授与されたことが記憶に新しい。
  余談ですが、毎年、高砂神社の祇園祭には、この新しい能舞台でも引き続き鐘華会メンバーで構成するハワイアンバンドと 近在のフラ教室と一緒に音楽を通じ地域の方々との交流を続けています。 また、この広い境内は、幼き頃の私達の恰好の遊び場でもあり思い出深い所でもあります。
  総門の内側に設置されている2基の石の常夜灯は、設置が寛政11年(1799年)となっている。 当初は、北前船も寄港した高砂湊を照らしていたであろうこの常夜灯は、用済みとなった今、 ここ高砂神社の総門内に移設されている。
  これらの常夜灯と北前船が寄港した南堀川の遺構や工楽邸旧家は、 北前船寄港地・船主集落の高砂地区の構成文化財として日本遺産となっている。
  高砂市をブライダル都市として宣言しているのは「たかさごや~浦舟に帆をあげて~」で知られる世阿弥の謡曲『高砂』発祥の地であることからであるが、 このことは、意外と知られていない。 以下に高砂神社境内の本殿・摂社・末社を写真で紹介しておきます。



22-高砂神社の鳥居と総門


23-高砂神社総門


24-拝殿


25-高砂神社の本殿


26-尉姥神社


27-弁財天


28-住吉社・三社・稲荷社


29-猿田彦社・秋葉・神馬社・天満神社


30-白蛇社


31-榎神社


32-金比羅宮


33-和魂(にぎたま)神社

5)懐かしい高砂の各町名の由来

  高砂町の道路は、碁盤の目のように区画されている。これは、姫路藩主本多忠正によって、元和年間(1615~1624)に高砂神社と南北の両堀川を中心に、 職業毎に29の町で区画されたそうで、その町名は今も、当初のままの名前で現存している。 各町の名前の由来は、例えば高瀬町が高瀬舟の船溜まりがあったことによる等々、 各町名の由来を示した掲示板が各町に立てられている。

6)高砂の歴史的建造物

  高砂町の各町は約400年の歴史を有し、県の歴史的景観形成地区に指定されているが、その歴史的建造物の数は少なく、 しかも各町に散在している。これらの内、代表的と思われるものを下記に紹介します。



38-花井家住宅(国登録文化財)


39-県民交流広場事業「高砂来て民家」

  花井家住宅は、明治時代後期の建築の町家で木造2階建て、北堀川の南にあり、昭和初期まで肥料問屋を営んでいた。 現在の花井家は当主のご厚志により、高砂地区まちつくり協議会に無償提供されており、協議会では、「高砂来て民家」と称して、 県民交流広場の拠点として、この歴史的遺産の活用を図っている。



40-松宗蔵(国登録文化財)


41-三連蔵


42-レンガ倉庫

  松宗蔵は江戸時代、文政6年(1823)建築の土蔵、平屋建ての米蔵として建てられた国の有形文化財で、のちに海陸産物商の倉庫として利用されていた。 今では、人形劇やコンサート等のライブ活動や作品展示場として活用されている。

  三連蔵は明治時代の土蔵。三棟の蔵が連続し白漆喰壁と基礎石が特徴的な米蔵。



43-キリシタン灯籠(申義堂敷地内)


44-天竺徳兵衛の墓(善立寺)

  キリシタン灯籠は、高砂町の北本町の岸本家が所有していた江戸時代の織部灯籠で、キリシタン灯籠とも呼ばれ姫路藩主池田輝政のゆかりの品と伝わる。 平成6年に高砂市に寄贈されたものを申義堂敷地内に移設したものである。

  天竺徳兵衛は、慶長17年(1612)に高砂町の船頭町に生まれる。 書記としてご朱印船でシャムにわたり約1年10ケ月後に帰朝、4年後、オランダ人の船に乗り、再びシャムへ渡り1年9ケ月後に長崎へ帰り、 詳細な見聞記を長崎奉行所に献じ、大いに異国文化を広め海外に眼を向けさせる等して、郷土高砂の名を高めた。 墓は、高砂町の善立寺にある。



45-十輪寺山門


46-十輪寺本堂

  十輪寺は弘仁6年(815)に弘法大師が勅命により創建され、後に法然上人が寺を復興、浄土宗に転宗したと伝えられる名刹。 本尊は阿弥陀如来。絹本著色五仏尊像が国指定の重要文化財で、 本堂は県の重要文化財、山門が市の指定文化財となっている。

2.高砂町の散策を終えて

  高砂町は400年の歴史を有する割には、残っている歴史的建造物は、そのスケールも小さくしかも散在している。 壮大で華麗、荘厳な歴史的建造物を多く見慣れている人にとっては、 高砂の歴史によほど精通していないかぎり興味を半減させるような代物もある。

  近年、多くの町おこしボランティアーの方々の地道な努力と、長年の懸案事項であった申義堂の復元や、工楽邸の改装、堀川遺構の発掘等々への行政の取り組み、 それに加えて、これらが北前船寄港地・船主集落の高砂地区の構成文化財として日本遺産として認められる等の環境も追い風となって高砂町の歴史と景観が見直されてきて、 多くの人が訪れるようになってきました。ここに記述していませんが、私達が幼い頃に馴染んで勝手知った路地裏や船溜まりなど津々浦々まで足を運んでみて、 ここに、こんな歴史が潜んでいたかと、改めて認識したところも多々ありました。

  カネカ高砂工業所も、この地に縁を結んで、鐘紡時代を含めて83年、鐘淵化学(カネカ)となってから70年の歳月が経ちました。 1968年にP問題も1989年に全てに決着をみた。その跡地は「高砂みなとの丘公園」として市民に開放しており、残りの広大な土地には、 カネカの太陽電池を設置するなどして有効活用が図られている。



47-高砂みなとの丘公園(後方太陽光発電)


48-公園よりカネカ方向


49-公園より三菱重工方向


50-後方は太陽光発電

  この高砂の地から多くの人が国内外に、はばたいていきました。そして、今も後輩の方々が、 この高砂の地でカネカの主力工場である工業所の発展に日夜努力されています。

  何かの縁で同じカネカに就職し定年まで勤めあげ、どうした因縁なのか?この地で終の棲家を設けた仲間も、また、この高砂に骨を埋めた仲間も大勢います。 また、幸いにも、私達は、定年以降も鐘華会という同じ釜の飯を食った多くの仲間たちとの繋がりがあり、 会社ともまったく無縁となったわけでもありません。

  高砂の町も少しずつ変化してきております。カネカ高砂工業所のゆかり地、 みなとまち高砂をもう一度訪ねてみませんか?

  今回はレンタサイクルで3~4時間間、途中、古民家の畳敷き喫茶(銀座通りより南に約50m)で紅茶・珈琲タイムも楽しんだ。 もちろん、最後には、高砂の夜で、懇親の場を持ったのはいうまでもない。



51-古民家を利用した喫茶店(季のしずく)


52-珍しい畳敷き喫茶店(善立寺)

参考資料

  資料-1:工楽松右衛門旧宅開館記念シンポジウム「工楽松右衛門旧宅と高砂みなとまち」
          (平成30年6月3日)の配布資料

  資料-2:高砂のんびりウオーク配布ビラ

  資料-3:工楽松右衛門旧宅 南堀川遺構カタログ

  資料-4:カネカOB吉田登著:みなとまち「高砂の偉人たち」、「高砂ゆかりの人物伝」

  資料-5:高砂観光協会発行資料