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投稿日:平成25年5月5日(日) 寄稿者:宮本和夫

「日本人の心・視て歩き」
〜大河ドラマ「八重の桜」の新島襄・八重さんに会いに行こう〜 見聞記

(下記写真はクリックしますと拡大写真を見ることができます。
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 07027この番号は、「日本酒で乾杯推進会議」の私の会員ナンバーである。入会の動機は、勿論こよなく日本酒が好きなことにもよるが、この会員の三ケ条の一つにある「日本文化を愛すること」という条目が特に我が意に適っているとの強い思いがあったからで今もまだその思いを持ち続けている。
 今回、初めて参加させて頂いた本社支部の「日本人の心・視て歩き」もまたしかりである。先人の足跡を訪ねその心を視て歩く。先人が残してくれた数々の遺産の中に秘められている日本人の心、凛とした気概、矜持など、今、あらためて見つめ直し、みならわなくてはならないとの強い思いがよぎる。すでにこの「日本人の心・視て歩き」同好会は14年の歴史を有しており、その間、見聞を広めるために各地に出向いた回数が81回にも及んでいる。
 定年以降ずーっと参加したいとの思いに駆られていたが、ようやく今回、初めて第82回目の〜大河ドラマ「八重の桜」の新島襄・八重さんに会いに行こうウオーク!!〜に参加させて頂く機会を得た。
 この道行きは、鐘華会本社支部のホームページに、写真や資料をふんだんに活用して、あますところなく掲載されていますのでそちらの方をご覧になって頂き、ここでは、引率者の森原氏の説明や同行者に聞いた話や現地で得た多くの資料から、八重の京都での活躍をかいつまみ、その走りのみを簡単に紹介させて頂くことにする。
  NHKの大河ドラマ「八重の桜」では、まだ、戊辰戦争にも到っていない。(5/5現在)
 
八重の京都での活躍は、会津藩が敗れた後、京都で謹慎中の八重の兄、覚馬が明治2年に新政府に提出した政治、経済、教育等22項目にわたる、将来の日本のあるべき姿を記した「管見」と称した建白書が薩摩藩主に認められて(覚馬はこの建白書を『管見』(狭い見識との意味)と謙称している)京都府の顧問として迎えられたことから端を発する。
 明治3年、覚馬は京都にて、かの有名な新門辰五郎の100坪の居宅を買取り居住していたところに翌年、母・佐久(のち同志社女学校舎監を務める)、八重、みねが上洛して同居を始める。
 その翌年の明治5年に京都府顧問の覚馬の建策で、ここに日本初の公立女学校の一つ、新英学校及び女紅場が開校され八重はここで舎監・教師として出仕し始める。

 八重の京都での足跡を訪ね、その心を視て歩く最初がこの女紅場跡の石碑を訪ねるところから、今日の京都行脚の途につく。
 どんより曇った4月26日(金)の1300に京阪電車の神宮丸太町駅の改札口の出口に総勢29名が集合した。
 目指す女紅場跡の石碑は、神宮丸太町駅を出てすぐの鴨川にかかる神宮丸太橋を渡ったところの橋のたもとにある。
出発地点・神宮丸太橋 女紅場址の石碑 新島旧邸 新島旧邸の玄関

石碑には、本邦高等女学校之濫觴(らんしょう)女紅場跡と記されている。濫觴とは何か?帰ってから調べてみると、原義は「大河といえども水源はやっとさかずき(觴)を浮かべる(濫)ことができるだけの小さな水たまりにすぎない」すなわち物事の始まりとか起源、起こりとの意味とのこと。今回の同行者の中で、この字が読めず意味もわからなかったのは、多分、自分以外には一人もいまい。初っ端から浅学非才ぶりを露見することになったが、会津の什の掟の「ならぬことはならぬ」ではないが、知らぬことは知らぬでいいように思うのだが、この齢になっても知らないことを知るということは望外の喜びも味わえることがうれしい。余談はさておく。
 閑話休題。正直、この石碑からは想像を膨らませることは少々難しい。次いで向かったのは、新島旧邸である。明治8年に新島襄は高松邸の半分を賃借して生徒8名で同志社英学校を開校した。すなわちこの地が同志社の発祥の地だが翌年旧薩摩藩邸に移る。その後、新島はこの高松邸を購入して和洋折衷の自宅を建設した。これが今の新島旧邸で2階建の瀟洒な建物である。書斎、セントラルヒーティング、応接間、様式トイレ等々、当時としては、とても斬新で洋風化した生活を営んでいたことが伺い知ることができる。ここで1枚目の記念撮影。
 次いで、1872年に日本最古の旧制高等女学校として創立された京一女京都一女)を前身とする伝統校である京都府立鴨沂高校の正門へ。ここの正門は、女紅場の正門を移設したものだそうだ。
 京都御苑の中を通って同志社女子大へ。玄関正面にはレトロな栄光館や赤レンガのチャペルが建ち並び歴史の重みが感じられる。ここで2枚目の記念写真を八重の葬儀が行われた栄光館の前で撮る。ここでは、ジェームス館で開催中の八重展を見学した。

京都御苑の中を同志社女子大へ 京都御苑の案内板 同志社女子大学入口(栄光館) 同志社女子大学のチャペル

次いで隣接する同志社大学へ。ここでは先ず同志社の真髄を示すと言われている「良心碑」を視る。この碑には「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ望テ止マサルナリ」と刻まれている。これは療養中の新島襄が1889年、東京から同志社5年生の横田安止に送った手紙の中の一節で自筆の書体を拡大して刻まれている。新島襄については、この他に「自責の杖事件」という痛々しいエピソードも残されている。次いで大学内のハリス館で開催されている「会津と八重企画展」を見学してから後、大学構内のテラスで休憩。全行程の歩行距離は4kmと聞いていたが、この頃にはクタクタで、暖かいコーヒーか冷たいビールが欲しかったがいずれもありつけなかった。重い足を引きずりながら?本日、最後の予定場所の京都教会へ向かった。

同志社大学の良心碑 薩摩藩邸跡 冷泉家の表門

この教会は、明治8年ごろ八重が聖書を習っていたゴードン宣教師らが中心となって明治13年に四条教会として生まれたが、明治42年に現住所に移り名も京都教会とあらためたそうである。
 一同、パイプオルガンの生演奏が奏でられている厳かな礼拝堂に通され神妙な面持ちで牧師の登場を待った。やがてパイプオルガンの演奏が終わり柔和そうな入牧師より数々の説明があった。その中で、新島襄がアメリカに向かう途中、上海で髷をおとしたその時の髪が遺髪として、この教会とあと4ケ所で保管されているとの話しであった。
 帰ってから、どことどこに保管されているのか、さっぱり思い出せず、またネットで検索するもまったくヒットせず、そうなると余計知りたくなって、あつかましくも、説明して頂いた入牧師に電話を入れて問いあわせた。お忙しかったのか牧師になかなか連絡が取れないため、電話口に応対に出られた教会の人が恐縮され、こちらから電話を入れますとのことだったが、そんな失礼なことはできず、当方より、再度電話させていただくことで、この話をあきらめることにした。しばらくして、ご丁寧にも入牧師より電話があり至極恐縮した。
 牧師の話によると、遺髪が保管されているのは、@函館・千歳教会(函館市松陰町9-6)で昭和12年に堀貞一牧師より寄贈されたとなっている。A新島学園高校(群馬県安中市安中3702):新島学園は、新島襄の教えを慕う人々の熱い願いと祈りにより、19475月、新島襄の父祖の地である群馬県安中に設立されたとのこと。B同志社資料館でC洛陽教会(京都市上京区寺町通荒神口下る松蔭町141-2)と私達が訪れた京都教会(京都市中京区富小路通二条下ル俵屋町197)である。牧師の話では、遺髪が保管されているところは7ケ所という説もあるとのこと。入牧師には、この場を借りて厚く御礼申しあげたい。  
 ところで、八重とキリスト教(プロテスタント)の関係だが、明治9年に京都初の洗礼を受け、しかも、その3日後に、新島襄と京都初のキリスト教での結婚式を挙げている。ついでながら、八重が新島襄と知りあうきっかけは宣教師ゴードン夫人の紹介による。
 最後に待望の三条河原町の懇親会場へ。冷たい生ビールが五臓六腑にしみわたり、疲れていたからだも一挙に息を吹き返えした。

京都教会 当日入手した資料(1/3) 懇親会 懇親会

交通費が3800円(片道格安チケット使用)、昼食費500円、懇親会費2000円の〆て6300円の出費で1日楽しく遊べ多くのことを学んだ。
 高砂支部の皆さん、この「日本人の心・視て歩き」に参加してみませんか?他支部の方でも参加できますし歓迎もしてくれます。
 また、高砂支部でもハイキング同好会やウオーキング同好会(健脚者向き)があり、兵庫県を中心にして主に以西の名所旧跡を訪ねて歩いています。どしどしと参加願います。
 いずれの支部の同好会も歓迎してくれること必定です。足に自信のある御仁は、高砂、本社、大阪、滋賀等の各支部の同好会を渡って歩き、旧知を温めてみては如何でしょうか?
 最後に、いろいろとお世話頂きました、この同好会の幹事である森原さんや一角さんに、それに同行の皆様方に厚く御礼申しあげます。どうもありがとうございました。また、参加させて頂きます。その節もどうかよろしくお願いいたします。
 家に帰って、風呂に入って今日の心地よい疲れを癒し、京都での八重の25歳から86歳の生涯を終えるまで、凛とした気概とその生き方に熱い想いを馳せながら日本酒で至福のひとときを味わって、今日の京都行脚の最後の締めとした。


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