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H24高砂文庫-6

「我が郷土高砂の歴史」

「カネカ高砂工業所の歴史を辿る」
〜そのU:「インダストリアル・パーク」〜

(掲載日:2012年2月8日)
吉田 登
 字西畑の鐘紡工場建設地は、大部分が田であって畑地はすくなかった。その畑地の中には綿畑もあったというから面白い因縁である。昭和五年に城後仁吉が鐘紡高砂工場長として赴任してきた当時は、土地は大部分が田のまま残されていて、小作に出し、安い小作料ではあったが約百六十石即ち四百表の年貢米が納入されていて、当時鐘紡の工場中特異な存在であった。  また樹木の多いことも特異の一つである。これらの樹木の殆ど全部が工場建設後に植えられらものである。女子寮構内にある大木及び同寮玄関前にあった松の大木は、以前からのもので、この驚くべき多数の植林をされた先人の努力はたいしたもので、後代の者の受くる恩恵もまた莫大である。城後仁吉の工場長在任中は、これらの樹木の整理、手入れを施し、樹木を損ぜぬように注意し一般にもその意が徹していたという
 しかし、戦争中菜園にするために、松林を切り開かれたことを知り、土地は他に何程でもあるはずだと思い、その心なきに公憤すら起きたと城後仁吉は、「高砂の思い出」鐘華の中で回顧している。
 当時高砂の町長をしていた松本利平の會孫で、高砂市阿弥陀町に住んでいる松本文雄氏は、利平が「鐘紡が緑の中の工場でインダストリアル・パークである」と書き遺しており、そんな鐘紡を賞讃している。
 かの
女工哀史の著者細井和喜蔵ですら、「工場の敷地内は鬱蒼たる森林の如くであって、樹蔭にベンチを据えたり、休憩の度に廊下へ持って行っておしゃべりの(ママ)を敷き、寝たり転んだり起きたり、自由気儘にして疲労を恢復せしめるようにしている工場は、流石の斯界の大立物たる鐘紡にのみ見ることが出来る」と、施設に感嘆しているのである。
 さて、松本文雄氏宅に保存されている、利平の「鐘紡に関する日誌」には、土地買収交渉のことを毎日克明に記録されている。その記録の中に、買収された土地へ進出の工場がもしも他用途へ使用の場合は、元の農地に戻すための還買を地元農業者が要求している記述がある。文雄氏は、「これこそ私が模索してきた自然総有行動である」と力説する。

 高砂市で「青松保全」「入浜権運動」など環境問題に長年にわたって取り組んできた文雄氏は、自然の事物は生物も含めて、すべての人のものであるという「自然総有」を提唱しているのである。先日私が阿弥陀町の文雄氏宅を訪れたとき、氏は、「利平がもし今健在なら、環境問題に取り組み高砂の自然浜辺の再生を図るだろう」と、また「利平が明治後期に高砂へ三菱製紙と鐘紡の二大工場を誘致したことを誇りに思う」と語ったことが印象的であった。
以降、そのV、そのW・・・と執筆中)
鐘紡高砂の保養院(大正時代)

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