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H24高砂文庫-5

「我が郷土高砂の歴史」

「カネカ高砂工業所の歴史を辿る」
〜そのV:津田信吾社長「化学の力で糸をつくれ」と指示〜

(掲載日:2012年2月19日)
吉田 登

 大正時代、人造絹糸出現当時鐘紡では、武藤社長は絹業立国を志していたが、人絹工業に関する計画には至らなかった。その後、武藤社長後任の津田社長は人絹糸製造は日本の将来に必須の産業であると考え、まず研究機関として昭和八年兵庫工場に武藤理化学研究所(のちの鐘淵化学中央研究所)を新設した。当研究所は、昭和五年武藤山治が社長勇退に際して、研究基金として鐘紡に寄付した五十万円をもとに設立された。

 津田は、「石でも水でも空気でもよい、化学の力で糸をつくれ」と当研究所に指示したテーマであった。当研究所は、最盛時には10部門、300人の研究員を擁する民間では最大の理化学研究所であった。その人絹研究部(第六部)のリーダー(部長)に野依金城が任命されていた。人絹研究部は人絹糸をひける葦から作り出すことに成功する。ノーベル賞受賞者の野依良治氏は金城の長男である。金城は東京帝国大学工学部で亀山直人に師事し応用化学を学ぶ。戦後は、鐘淵化学現カネカ()に移り研究開発部のリーダーを経て専務となった。左の写真は、金城は湯川秀樹博士らとヨーロッパの学界に招待されたが戦争勃発で引き返し、米国を経由して帰国途中ハワイに立ち寄った時のものである。ちなみに、私は三十七年の入社時、高砂工業所の合成研究所に配属された。
鐘紡武籐理化学研究所(のちの鐘化中央研究所) 左から二人目が湯川博士(32歳)。三人目が野依金城(28歳) ・・・(1939年ハワイにて)

 当時、定期的に本社で研究開発会議があって、研究報告のために上司に連れられて同席したこともある。そのときの研究開発部のトップが野依金城部長で、私は雛であったが、実験に関して指摘を受けるなど叱咤激励されたこともあった。また私は本研究所で昭和四十年前後に、一年間ほど「可燃性ガスの爆発性」について実験・研究したことがある。当研究所には本格的な爆発実験装置が装備され、安全工学の専門研究員も確保されていた。さて、津田社長は、日英綿業戦争を機に、化学繊維への大進出を決意した。雄大な構想をもって、一気呵勢に実行するのが津田のやり方である。高砂と防府に、同時に二大人絹工場を建設した。高砂については昭和七年頃から建設用地を定め具体化検討を進めた。
 
高砂町はこの情報に歩調を合わせたかのように、鐘紡拡張誘致委員会が町議会により二十四名が選任され、昭和七年十一月から十二月にかけて、これらの委員及び高砂漁業組合役員諸氏が淀川工場を見学するやら、津田社長に敬意を表するため神戸営業部へ出向するなど、誘致に奔走している。このような誘致活動の甲斐あって、昭和九年十一月海水浴場の北側に鐘紡人絹工場が建設に着手した。
 昭和十年六月の神戸又新日報には、「高砂の遊郭/素晴らしい好景気」の見出しで、次のような記事を載せている。
 「娼妓一人が百四十円/昨年より五割の増収、高砂町次郎助町遊郭は最近素晴らしい好景気にめぐまれて各置屋業者はホクホクものである。同町では鐘紡人絹工場建設工事に約一千名の土工、人夫が就業しているので同工事が終わる本年十月頃までは、労働者の享楽が遊郭方面にむかい連日の登楼者は労働者ばかりで押すな押すなの豪華版。-------」と。これは、現在の()カネカの前身である鐘紡の人絹工場建設時の記事である。


鐘紡高砂人絹工場(昭和11年)
初代工楽松右衛門の銅像(高砂神社)

 この辺りの土地は、高砂沿岸の沙汀(砂浜)を二代目の工楽松右衛門によって開拓され、工楽(又は宮本)新田と呼ばれているところである。
 初代の工楽松右衛門は、江戸後期、北前船、菱垣廻船などに使用される帆布の発明者で港づくりの名人でもあった。今年没後二百年になる。
 さて人絹工場は、昭和十一年から次第に施設を増し、スフ、人絹、苛性ソーダー、石けん、等の製造工場として操業したが、終戦後の昭和二十四年九月企業改革により、この工場が母体となって鐘淵化学工業株式会社(以下鐘化と称す)として発足した。これに関しては改めてふれる。(次号そのWへ続く)

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