近代日本の黎明期において、『学門ノススメ』の中で「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ」と喝破した、慶応義塾の創立者福沢諭吉は、日本財界に多数の超一流の指導的人材を送り出している。しかしながら、その多数の人材の中で「福沢精神」を最もよく継承した代表的な実業家であり、政治家であったのは武藤山治であるといわれている。
武藤山治に代表される鐘紡は、その「家族主義」と「温情主義」とに基づく従業員の優遇で有名であったことは一般に認められている。かの『女工哀史』の著者細井喜蔵によってすら、鐘紡賞讃の言葉が随所に散見するほどである。
鐘紡の育ての親・武藤山治は「温情主義」「家族主義」の労務政策と、進んだ技術による合理的経営とを巧みに結びつけて、大鐘紡王国を築きあげた。
昭和37年新入社員とその父兄〔高砂工業所クラブ(現・出汐館)にて〕
前列中央が中司清社長
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私事であるが、私が鐘化〔現カネカ(株)〕に入社したのは昭和三十七年であり、当時高砂工業所第一会議室の正面には、鐘紡の中興の祖である武藤山治と、津田信吾の両元社長の写真が掲げられていた。また、入社早々、当時新入社員は人事担当者に引率されて、京都の東大谷墓地に眠る津田信吾の墓参りをし、その後、南禅寺をすこし散策し、もの静かでこじんまりした老舗で湯豆腐を賞味するという、特異ともいえる恒例の行事が行われていた。私が鐘化に入った当時、武藤山治の「温情主義」「家族主義」という企業風土が継承されていたように思う。
私が入社したときの社長は中司清である。中司は、大正十三年、慶応義塾大学経済学部を卒業し、鐘紡に入社した。鐘紡は福沢諭吉の甥・中上彦二郎、門下生・朝吹英二の関係で慶応義塾と縁が深かったが、特に武藤山治が、国際労働会議に使用者代表で出席したり、いわゆる「温情主義」を唱えて華々しく活躍したのにひかれて鐘紡を選んだ、と追想録「中司清 小伝」『偲』の中で回顧している。
戦後、GHQ(連合軍総司令部)により、過度経済力集中排除法が公布され、鐘紡が該当会社に指定されて、事業分割を要求された。鐘紡は独占事業でないとの理由で、東洋紡、大日本紡(後のユニチカ)と一体になって抵抗した。結果的には紡績会社は集中排除法適用を免れたが、その中で鐘紡だけが自主的に事業を分割することになった。それは鐘紡を武藤山治時代の繊維専門の会社に戻し、津田信吾が拡大した非繊維事業を化学工業中心にまとめて新会社をつくることであった。そして昭和二十四年に新会社鐘淵化学工業(株)〔(現・カネカ(株)が設立された。社長には鐘紡の副社長をしていた中司清が就任した。
中司社長は、「鐘淵精神」という言葉をよく使った。鐘淵精神とは鐘紡の伝統の中で培われた精神であり、鐘紡の先輩武藤山治、津田信吾の元社長の言動を参考にすることを勧めている。昭和四十四年に中司が会長就任に際して社員に述べた挨拶では、「信頼される社風」「信頼に応える社風」が創立後二十年間の社長在任中につくりあげられたと思う、と満足の意を表したのであった。
昭和四十三年九月、私は同僚三名とともに上司の中川恭一氏(のち高砂工業所長、専務など歴任)に引率され、本社社長室を訪れ、一カ月という長期にわたるアメリカ出張の帰朝報告をした。当時はまだ海外出張もそれほど多くない頃で、しかも入社して三年から六年という、我々の雛が社長に直に対面できることは珍しいことであった。我々は技術導入に伴う技術習得のため派遣されたのであったが、中司社長は、「アメリカで何を見聞したか」を各人に求めた。一人十分ほど緊張しながら話したことを、昨日のように憶えている。私は次のようなことを話した。
➀国土の広さ、膨大な資源の保有、生活レベルの高さ等アメリカの「剛建な体力」
➁人種差別と格差を窺わせるアメリカ社会の縮図
➂顧客ニーズに対応した利便性とコスト低減を追求した小売業の合理的システム
ちなみに、そのとき私と一緒にアメリカに派遣された同僚とは、私より二年後輩の森弘志氏(のち高砂工業所長、常務など歴任)、三年後輩の大西優氏(のち人事部長、常務など歴任)、そして二年後輩の甲田邦彦氏(のち家庭の事情により途中退社)、であった。
私は、先にふれたアメリカから技術導入した、当時日本で最大規模の汎用性樹脂モノマープラントの建設・試運転に携わった。我々四名が四班三交替体制のフォアマンとして、試運転を悪戦苦闘しながらも計画通りに立ち上げた。とくに夜勤におけるトラブル対応は心身ともにきつかった。その体験と理論的考察によりトラブルシューティングを作り、安定稼働を確立したのである。このような人事体制も同業他社に見られない特異なものであったように思う。これは前述している中司社長の「信頼に応える体制(社風)」によるものと、手前味噌であるが、私は勝手にそう思っている。
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