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H24高砂文庫-8

「我が郷土高砂の歴史」

「カネカ高砂工業所の歴史を辿る」
~そのⅤ〈完):そのⅤ (鐘紡)伝統的企業風土の喪失

(掲載日:2012年3月21日)
吉田 登


 武藤山治が退任した昭和五年には、すでに海外にまで名声を知られる大会社になっていた。 事実上の創業者ともいうべき武藤山治の永年にわたる鐘紡経営の根本にある思想は、「鐘紡一家」としての家族主義経営であった。 武藤山治は鐘紡の事業の祖としてだけでなく、鐘紡精神の祖でもあった。そのカネボウ(鐘紡の後身)は、平成十九年に消滅した。 鐘紡の遺伝子は「クラシエ」として僅かに残存している。
  昭和三十三年に鐘紡に入社し、役員も歴任し四十年間勤めた三好恭治氏は、人事課長、人事部長の在任時、伊藤淳二が社長、会長であった。 その三好氏は、『三好恭治のエッセィ「鐘紡春秋」』の中で、「鐘紡の中興の祖である武藤山治、津田信吾の両社長の企業家精神は今日、鐘淵化学工業(株)〔現・カネカ(株)〕が継承している。 『カネボウ』は滅んだが『鐘紡』は生き続けている次第である」と述べている。
  また昭和四十五年頃、三好氏は「ローマは一日にして成らず」されど大ローマは瓦解した歴史的現実を思うとき、鐘紡は決して瓦解させてはならない。 歴史の継承とは、先人から手渡された遺産を更に量質ともに高め、次代にバトンタッチすることである。最後に、歴史の継承者として崇高な責務を果たすことを誓い合おう」と述べている。
  その三好氏は、伝統的な企業風土が失われ鐘紡という大きな組織が、蝕まれ機能低下しつつあることを危惧していたのであろう。
 結果的に見ればカネボウは、労使協調路線がリストラの足かせとなり、 ペンタゴン経営(繊維・化粧品・食品・薬品・日用品の5事業)では化粧品以外の不採算事業、特に創業以来の業種である繊維事業は、毎期損失を計上し続けた。 しかし他事業が赤字でも、高収益事業である化粧品事業がそれを補完する構造が出来上がり、経営上の危機感とリストラを行う意欲を失わせた。こうした構造転換の遅れが致命的であった。 これは、問題があっても黙認する企業風土へ変貌していったことに尽きる。


鐘紡高砂工場跡の記念碑(高砂公園内)


  明治四十年に設立された鐘紡高砂工場は、高砂の発展を支えてきたが、戦後の繊維業の構造変化に伴って、 昭和五十年代に入り工場閉鎖を余儀なくされた。 その工場跡地は、現在県立高砂南高等学校、高砂公園、そして西畑住宅地になっている。 当工場の正門跡は、現在の「高砂公園」の東入口辺りで、現在でもここから大樹木の並木路が長々と続き当時の面影をとどめている。   当時、この鐘紡高砂工場の構内には、松、ユーカリなどの大木が多数植樹され、木蔭にはベンチが据えられており、 当時の高砂町長松本利平が、「この工場はインダストリアル・パークだ」と賞讃したことが容易に想像できる。

鐘紡高砂工場と高砂の町(昭和27年)

  また構内には、幼稚舎、女子寄宿舎、鐘紡病院なども配備され、構外の南側には赤屋根の保養院もあった。 これらの工場も含めた施設の配置は、明治後期の創業時から昭和二十年代末まで概ねその姿を留めていた。 しかし、昭和三十年代に入ると構内とその周辺の様子が少し変化していく。
  昭和三十二年には、鐘紡社内で将来の現場の中堅幹部を育成するため、鐘紡技術学校が開校した。 当時、環境の最も良い高砂工場の構内、ユーカリの並木がそびえる快適の地での開校であった。
技術学校の教育課程は、一般学科(数学、英語、繊維、QCなど)と専門学科(紡績、高分子、電気など)から成っていた。

鐘紡技術学校校舎(昭和33年頃)

技術学校の校歌は、

白砂に寄せる小波や  若き想いの高砂に

希望の星を見つめつつ  明日の技術を究むなり

ああ、若き我等の  鐘紡技術学校


   この校歌を唄いつつ行った海岸までの早朝マラソンは、当時、高砂の町の名物ともなった。 この技術学校は、高砂工場の閉鎖とともに昭和五十二年に休校となった。

  県立高砂南高等学校及び高砂公園の正面前を南北に走る道路の東側の西畑一丁目の地には、 昭和二十四年鐘化が設立されるまで殆ど鐘紡社宅であった。その後その社宅は鐘化社宅へ移行していったが、今、その姿を消してしまった。 残されているのは、「出汐館」の北側周辺の赤屋根二階建の管理職社宅十軒ほどだけである。


出汐館


  高砂における代表的な近代建築である「出汐館」は、鐘紡人絹工場が出来た時に迎賓施設として、 昭和十一年に建てられた。
  現在、カネカ(株)の社員厚生施設として使用されている。大きなアールを持つ階段室、ステンドグラスの階段窓が特徴的な美しい建造物である。
  高砂市の万灯祭には一般開放している。


  以上五回にわたって、カネカ高砂工業所の歴史の一端を辿ってきました。 特に、「ふるさと高砂」と「企業風土」をキィーワードとした駄文ながら、ご愛読いただき有難うございました。

■主要参考および引用文献

    城後仁吉「高砂の思い出」『鐘華』鐘淵化学工業株式会社、1954年

    入交好脩『武藤山治』吉川弘文館、1970年

    『鐘紡百年史』鐘紡株式会社、1988年

    『たゆみなき前進 鐘淵化学』ダイヤモンド社、1991年

    『偲 中司清』鐘淵化学株式会社、1991年

    松本文雄『青松保全・再生論(1)』2010年

    高砂市史編纂専門委員会『高砂市史 第六巻史料編 近現代』高砂市、2008年

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