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H24高砂文庫-9

「我が郷土高砂の歴史」

道徳教育の副読本に登場した工楽松右衛門

(掲載日:2012年4月10日)
吉田 登


大阪府狭山池博物館長
   工楽善通氏

私は昨年(平成二十三年)の五月に、初代工楽松右衛門の七世で、現在大阪府狭池博物館長をされている工楽(くらく)善通(よしゆき)氏を、取材のため訪れた。そのとき私は善通氏から、「工楽松右衛門の公益のために尽すという精神を、兵庫県が取り上げ道徳の副読本として収録したそうである」と、教えられた
 それから数カ月後、高砂市立伊保南小学校の某先生から、工楽松右衛門のことを載せた拙著みなとまち高砂の偉人たちを、譲って欲しいという電話が入った。
その先生にお会いして話を訊くと、兵庫県が道徳教育の教材として作成した小学校56年用「心 ときめく」の中に、「函館で出会った人 ----工楽松右衛門----」が掲載されており、近々その教材に基づき、初めて教えるという。熱心な先生は、事前に工楽松右衛門のことを勉強するため、私の本を求めたのであった。

兵庫版道徳教育副読本について、その趣旨・内容等について紹介しておく。
副読本作成の趣旨は、兵庫ゆかりの人物を取り上げるなど、地域の特性を生かし、子どもたちの興味や関心を高めながら、郷土に誇りをもち、人と人とのつながりや社会の中での自己の責任や義務、役割を自覚するなど、自己の生き方のよりどころとなるような心に響く魅力ある副読本を作成し、(中略)兵庫の道徳教育のさらなる充実を図る、というものである。

副読本(教材)は四種類で、その名称は下記の通りである。

 小学校12年用 「こころ はばたく」

 小学校34年用 「心 きらめく」

 小学校56年用 「心 ときめく」

 中学校用     「心 かがやく」

 また、教材の内容は、「先人の生き方」「自然」「伝統と文化」「震災の教訓」の四つの分野から成っている。
 ちなみに、「先人の生き方」に掲載されている高砂市ゆかりの人物は、小学校12年用教材の「からすのえんどう  -----森はな------」と、小学校56年用教材の「函館で出会った人  -----工楽松右衛門-----」の二名である。
 それでは、「函館で出会った人 ----工楽松右衛門---」には、どんなことが取り上げられているのか簡潔に紹介しておく。


神戸の小学校6年生の雄太は、妹、母と三人で母の実家である小樽で夏休みを過ごした。三人は神戸に帰る前に、函館に一泊し観光する。そのときタクシーの運転手は雄太に、「私ら函館の人間は兵庫に足を向けて寝ることが出来ないんですよ、兵庫の人には本当に感謝していますよ」と話しかけた。雄太は「その人は淡路出身の高田屋嘉兵衛でしょう」と応えた。しかし運転手は「嘉兵衛さんは確かに函館の恩人だが、もう一人の大恩人は高砂の工楽松右衛門ですよ」と。そのとき雄太は、函館の町は、高砂の工楽松右衛門が港をつくったお陰で函館が繁栄したことをはじめて知った。ここで、工楽松右衛門と高田屋嘉兵衛との出会い、函館の築港などについてふれておく。
 松右衛門と嘉兵衛はともに兵庫を拠点として活躍していた。その背後には、北風荘右衛門の一方ならぬ援助があった。兵庫津の繁栄は北風家の繁栄でもあり、「兵庫の北風か、北風の兵庫か」といわれるほどの豪商であった。 松右衛門が()()のころには「北風の湯」にひたるなどの世話になった。松右衛門が嘉兵衛と出会ったのも、「北風の湯」を介してであった。松右衛門はその頃五十歳位で、帆布発明者として広く知られていた。

 
函館山から函館港を望む 「高田屋嘉兵衛 本店の地」 の石碑

 嘉兵衛は淡路島の都志の浦から兵庫津に出てきて間もない頃で、歳は凡そ二十四だった。それ以降、嘉兵衛は松右衛門を「松右衛門旦那」と呼び尊敬した。嘉兵衛は寛政十一年(一七九九)東蝦夷地に幕府直轄により、エトロフ航路を開くが、これを契機として幕府の蝦夷地経営に深く関わっていく。その経営の拠点として、箱館の港町開発のとき松右衛門は、嘉兵衛からの協力要請に応える。そして享和三年(一八〇三)、松右衛門の設計によって箱館の地蔵町の浜に築港し、文化元年(一八〇四)に巨大な船作業場をつくる。
 その作業場は、「船たで場」といい、木製の船底に付着している虫や貝を燻して駆除し、同時に損傷している箇所を補修するところで、現在のドックである。船底を燻したり修理するのに船を引き揚げるためには比較的軟らかな石畳が必要であり、松右衛門は播州高砂に産する竜山石を、大量に箱館に運び船たで場を造成した。
松右衛門の生涯における主な事績は、木綿製高性能帆布の発明、特殊作業船の開発、そして北方エトロフをはじめとする各地の港湾施設の改修及び浚渫などで、公益のため大いに尽している。これらの功績がみとめられ、享和二年(一八〇二)には幕府から工楽(もと宮本姓)の苗字が与えられた。


工楽松右衛門の墓(高砂十輪寺)

 松右衛門が常々「人として世の中に役立てようという努力もしないで、べんべんと日を送るというのは鳥や獣にも劣る」と言っていた。彼は生涯にわたって、私心を去り世のため人のために尽す信念を貫き通した、高潔な人格の持ち主であっ松右衛門は、文化八年(一八一一)に、備後福山藩阿部候の依頼により「鞆の浦」の港湾施設の改修を行ったあと、その翌年高砂の自宅で病死する。享年七十歳であった。今年没後二百年にあたる。
 

この度、工楽松右衛門は兵庫県における道徳教育の教材に取り上げられ、小学生とその家族及び地域にも、その趣旨が理解され橋渡しとなって、緩やかであっても幅広く顕彰されていくことを期待してやまない。

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