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H24高砂文庫-10

寄 稿 欄


美濃部達吉の妻多美について
 
「巌頭之感」に纏わること
(掲載日:2012年2月2日)

2012年1月26日 吉田 登

 私は昭和二十九年に高校の修学旅行で、日光の華厳の滝に行った。そのとき、この滝での投身自殺者が明治以来跡を絶たないと聞かされた。 明治三十六年五月二十二日、一高の学生であった藤村操が華厳の滝において、傍らの木に遺書「巌頭之感」を残して身を投じた。厭世観によるエリート学生の死は、当時の社会に大きな影響を与え、後を追う自殺者が続出した。華厳の滝がいまだに自殺の名所として知られているのは藤村操の死故であろう。彼の死は一高で英語の教師をしていた夏目漱石にも大きな打撃を与えたといわれる。その事件の二年後に出版された吾輩は猫であるの十章には、「---打ちやって置くと巌頭(がんとう)(ぎん)でも書いて華厳(けごんの)(たき)から飛び込むかもしれない---」と言及している。操の自殺の原因は遺書「巌頭之感」の影響もあって、哲学的な苦悩によるものとするのが、大方の推測だったが、一方根強い失恋説もあった。その失恋の相手の女性が四名も登場するのには驚かされる。中でも最も有力視されたのが、当時の文部大臣・菊池大麓の娘多美である。その彼女が著名な法学者・美濃部達吉と結婚したために、彼女に思いを寄せていた操は悲観して自殺したとされた。大正十一年七月には、当時外遊中の美濃部達吉邸に二度も強盗が入り多美夫人を脅迫するという事件が起こると、口さがない連中は「あな恐ろしや、藤村操の怨霊じゃわい」と噂したとも伝えられている。


達吉(33歳)、亮吉(2歳)、多美(20歳)(明治39年)
八十年以上経過した昭和六十一年五月九日付の東京新聞に、「藤村操は失恋だった」の見出しで「その原因は失恋で相手は前東京都知事美濃部亮吉の母(達吉の妻)だった」と大きく取りあげた。 ところが同じ昭和六十一年の七月一日付朝日新聞には、馬島千代という四人目の女性発見の報道が出た。今回は物的証拠があった。藤村操が自殺の直前に手紙とともに渡したという本が出てきて、相手の女性が馬島千代だと分かり漸くおちついた。藤村操の失恋相手の一人にされた多美は、結婚前のゴシップとはいえ、身の潔白が明らかになり安堵しただろう。
 さて、美濃部達吉が唱えた、明治憲法を最大限に民主主義的に解釈した天皇機関説が、昭和十年に軍部、右翼により排撃され終に権力によって葬られる。達吉は貴族議員などの公職を追われる。美濃部宅へ、天皇の尊厳を冒す、自決せよ、と脅迫状が日本各地から送られてくる。そして昭和十一年二月二十一日、達吉は東京吉祥寺の自宅で小田という男にピストルで撃たれるが一命はとりとめた。その苦境を達吉とともに乗り切った夫人の多美は、達吉が当時の心境を詠った歌を雑誌に寄稿している。


わが進む道は茨の道なれと 正しき道はたたひとつこそ


力もて学ひの道を閉さんとす 力なきもの如何にすへきか

荒れ狂ふ嵐の中を一筋に
 正しくあゆむ道のくらさよ 

正しきを曲れるとよひ曲がれを正しと呼ぶあさましの世や

われはたたわが行く道を進まなむいかに嵐のあれ狂ふとも

                   多美夫人

 なお、高砂公民館の「美濃部親子文庫」には
 多美夫人の関係書簡が多数保管されている。

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