高砂支部ホームページ
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1.高砂支部だより(支部役員名簿や行事予定、その他連絡事項) | |||||
2.高砂支部同好会活動の内容(活動予定及び直近の活動報告を記載) | |||||
世話人名簿 | 囲碁・将棋 | ウオーキング | グランド・ゴルフ | ||
ゴルフ | ハイキング | カラオケ | 文化展 | ||
3.ネットワーク便り (10/6)(各部門内での行事予定【職場OB会】等々の連絡及び実施事項等) | |||||
4.高砂文庫(寄稿コーナー:近況報告、紀行文、エッセ-、詩、短歌、俳句、ノンフイクション等々) | |||||
5.故郷たより(ふるさと便り:会員が居住する地域社会での出来事や歴史等の紹介) |
H24高砂文庫-10
2012年1月26日 吉田 登
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達吉(33歳)、亮吉(2歳)、多美(20歳)(明治39年) |
八十年以上経過した昭和六十一年五月九日付の東京新聞に、「藤村操は失恋だった⁉」の見出しで「その原因は失恋で相手は前東京都知事美濃部亮吉の母(達吉の妻)だった」と大きく取りあげた。 ところが同じ昭和六十一年の七月一日付朝日新聞には、馬島千代という四人目の女性発見の報道が出た。今回は物的証拠があった。藤村操が自殺の直前に手紙とともに渡したという本が出てきて、相手の女性が馬島千代だと分かり漸くおちついた。藤村操の失恋相手の一人にされた多美は、結婚前のゴシップとはいえ、身の潔白が明らかになり安堵しただろう。
さて、美濃部達吉が唱えた、明治憲法を最大限に民主主義的に解釈した天皇機関説が、昭和十年に軍部、右翼により排撃され終に権力によって葬られる。達吉は貴族議員などの公職を追われる。美濃部宅へ、天皇の尊厳を冒す、自決せよ、と脅迫状が日本各地から送られてくる。そして昭和十一年二月二十一日、達吉は東京吉祥寺の自宅で小田という男にピストルで撃たれるが一命はとりとめた。その苦境を達吉とともに乗り切った夫人の多美は、達吉が当時の心境を詠った歌を雑誌に寄稿している。 |
わが進む道は茨の道なれと 正しき道はたたひとつこそ 力もて学ひの道を閉さんとす 力なきもの如何にすへきか 荒れ狂ふ嵐の中を一筋に 正しくあゆむ道のくらさよ 正しきを曲れるとよひ曲がれを正しと呼ぶあさましの世や われはたたわが行く道を進まなむいかに嵐のあれ狂ふとも 多美夫人 |
なお、高砂公民館の「美濃部親子文庫」には 多美夫人の関係書簡が多数保管されている。 |