喜寿の挑戦・富士登山
(掲載日:2012年10月30日)
吉田 登
《富士登山に向けてトレーニング》
平成二一年の秋、私は姫路のウォーク仲間と播磨の里山登山の帰りに、姫路駅前のいつもの居酒屋に寄り名目は反省会ながら、
すこし調子が上がってきたとき、「日本人なら富士山に登ろう」と自信もないのに、願望をきめていってしまった。すると誰も躊躇することなく直ちに来年行こうと決まった。
リーダーは、日本百名山全山を踏破し、富士山の登頂も既に二回果たしている森田さん(71)。あと神田さん(74)と私(74)で参加者は三名である。神田さんは、登山家・加藤文太郎を研究し、登山の基本を十二分に心得ている。加藤文太郎は、新田次郎の小説『孤高の人』のモデルになり、北アルプスの「単独登攀の加藤」「不死身の加藤」としても有名である。
また六甲全山縦走ルートの開拓者でもある。年も明け、いよいよ今年(平成二二年)は八月初めに、富士山頂への挑戦だ。そのためには体力を鍛えとくに持久力をつけ、気力を高ぶらせ自信をつけなければならない。
トレーニングは森田リーダーの計画に基づいて行うが、個人としても併行して自主的に行わなければリスク対策はおぼつかない。
私は、もともと肥満体で、中性脂肪、コレステロール、血圧など標準値を越え、メタボリックシンドロームに判定され要注意者であった。
しかし五、六年前から、運動量アップと食べる量を減らし体重を七〇キロあたりまで減量させた。その結果、血液検査の異常値はなくなった。
だが循環器系統については過去の後遺症があり、安心できない状態である。
私は、山に登ると胸の動悸が激しく息切れするが、体重の負担が少なくなったためこれまでに比べると非常に楽になったことは間違いない。
トレーニングはまず四月ごろから森田リーダーの下で、信貴山、天王山、葛城山などへ、そして六月から七種山・七種槍、千ヶ峰、笠形山、最後は猛暑の炎天下高御位山で仕上げた。
また個人としても自主トレーニングを始めた。幸いタイミングよく五月に、登山家・岩崎元郎さんが高砂に来られ、
初日は高砂市福祉保健センターで「岩崎元郎の健康登山講座」が、翌日は、岩崎元郎さんと一緒に高御位山(304m)に登ろうというイベントが行われた。
私はこれに両日とも参加した。高御位山登山の参加者は二百人ほどであった。登山コースは、鹿島神社裏の百間岩から上り、鷹の巣山、高御位山を経て、
国道2号線に近い北池登山口に下りるのである。私は常に岩崎元郎さんの後を金魚の糞のようにくっつき歩きながら、元郎さんから直接、疲れにくく効果的な登り方などを指南してもらった。
皐月の好季節ということもあり、当日は息切れもなく終始快調であった。なお、高御位山系は播磨アルプスともいわれ全く木陰がない坊主山の連山で、
標高は低いが、夏の登山では心肺に負担がかかる。
高御位山系は登山口が多くあり、その日の体調とか訓練目的に応じて、登山コースを選択することができる。また高御位山麓の駐車場には、わが家から一五分ほどで着くので、
不断のトレーニング山としてはもってこいなのだ。
《挫折》
このようにトレーニングを重ねてきたが、七種槍山では下山道にさしかかると疲れが出てきたのか睡魔に襲われ、己をきびしく叱咤しながら、
何とか無事にゴールの野外活動センターに辿りつくことができた。このことを神田さんから聞いた姫路ウォーク仲間の先輩が心配され、激励の文が届いた。それには「----少し疲れがあったようですね。富士山は高度順応がキーでしょうね。前日から下山まで禁酒してください。一足の石の高さに登りけり 高浜虚子。
一足を重ねて人生の展望を探って来られたし。」と書かれていた。この重みあるメッセージに勇気づけられ、気力は一旦落ち込んだが、また快復した。
その後、あらためて体調を確認するため猛暑の炎天下、一人で高御位山に登ったがこれまでと同じく息切れがし、胸の動悸も激しく異常なほどの苦痛を覚えた。
これでは楽しいはずの富士登山が、私のためたに台なしなりかねない、そんな思いから、富士登山を断念することを、まず森田リーダーに伝えた。私にとって大きな目標達成に向けてこの四月からメンバーの皆さんとトレーニングを重ねてきたが、気力に対して体力が及ばず、間際になって苦渋の決断をしたが迷惑をかけてしまった。
私を除いた、森田、神田各氏は待望の富士登山は八月三日、四日に実行され登頂を果たした。私は挫折したが、このトレーニング体験を喜寿に近い晩年ながら、
今後の人生の反省点として活かせればと思っている。こうして今年の「私の鎖々たる挑戦」は終わった。
《再挑戦(平成二三年)》
私は若い頃から、機会に恵まれなかったためか登山の経験は少ない。かつて私が登山した二〇〇〇メートル級の山は、
燧岳、男体山、石鎚山、そして剣山の四山だけである。前者の二山は東京の学生時代に登った。後の二山は古稀を迎える直前に、日本百名山全山を踏破している妻の先達によって果たした。
今年こそ、チャンスがあれば富士登山へ再挑戦すると決心した。森田、神田の両氏は、私のその決意をそれなりに察したのか今年も富士山に登るという。
私は早速二月頃から自主トレーニングを開始した。毎朝、近くの竜山連山・「石の宝殿」の一六〇メートルほどある石段を駆けあがり、一時間ほど汗を流した。
ちなみに、登山家・加藤文太郎は、毎日訓練のため下宿から勤め先の会社(神戸和田岬の造船所)までの往復六キロの道のりを、石を入れたリュックサックを背負って歩いて通ったという。
森田さんは、二リットルのペットボトル三本をリュックサックに入れ、近くの山を歩きまわるという。流石に、偉業を成し遂げる人は、不断の努力も並大抵のものでない。感服するばかりである。
さて、高御位山登山は、私の体調や登山力を評価する試金ルートともいえる。この高御位山が、一月末に大火災発生。また六月末には大阪からやってきた登山者(65)が行方不明、翌日発見されたが死亡していた。原因は熱中症または心肺異常といわれている。このような出来事があったが、私は三月から六月にかけて、五、六回高御位山系を縦走した。
好季節であったが、息切れなどは殆どなく快調であった。
一方合同トレーニングも、六月初めから開始した。六甲山、書写山、増位山、高御位山、そして笠形山と、酷暑のなか苦痛な場面もあったが自分ながらよく頑張った。
《日本一高い剣が峰に立つ》
二年の長きにわたってトレーニングを重ねてきた。いよいよ富士登山決行の日は目前に迫り、その成果が試される時が来た。本来楽しいはずだが、不安と緊張で、
人事を尽くして天命を待つ、の心境である。
八月五日早朝、天候良し、体調は上々。我々を乗せたバスツアーは、姫路を六時二〇分に出発し、標高二三〇五メートルの五合目には一七時頃に着いた。
我々はここで出発準備し一七時四〇分に、雨のなか小御岳神社の鳥居のところからスタートした。六合目の富士山安全指導センターを過ぎた頃には日が暮れ、
暗闇の中をヘッドライトの光を頼りに緩やかな登り道を一歩一歩進んだ。まだ登りはじめだが私はきわめて快調である。途中はやくも中年女性が体調悪化を訴え、
下山するために手間取り四〇分ほど立ち往生し、七合目の宿泊予定の「花小屋」にはかなり遅れ二一時頃に着いた。
翌朝は「花小屋」の前からご来光を拝することができた。雲の下から太陽が顔を出し始めると、
瞬く間に全容を現わし天地をあまねく照らす、その日の出を眺めると荘厳な気持ちになった。また地球の回転はそんなに速いのか、と強く感動する瞬間であった。
いよいよ山頂を目指して出発だ。「花小屋」からは火山岩の道になる。八合目を過ぎると胸突き八丁の登りとなり、しばらく行くと須走口からの登山道と合流し、
火山礫の道をひたすら登っていくと白木の鳥居が近づき、石段を登りつめると、久須志神社が建つ吉田口頂上に達した。丁度一二時であった。
森田、神田各氏に感謝の意を込めて握手を交わし喜び合った。
私は、今まで人生において目標地点だけを強く意識して足下をあまり見なかった反省がある。「千里の行も足下に始まる」「一足の石の高さに登りけり 虚子」などを肝に銘じて、
今後一歩一歩前進していきたい。
渾身の力をふりしぼって、やっと吉田口山頂に辿りつき、一息入れたのも束の間、これから一時間半ほどかけて「お鉢巡り」をしながら剣が峰に向かうのである。
日本最高峰・剣が峰に立たなければ、「九仞の功を一簣に虧く」ことになる。
雨のなか時計回りに歩きながら剣が峰に向かう。足もとに目をやると噴火口が大きな口を開けている。その噴火口、つまりお鉢の直径は八〇メートル、深さ二四〇メートル、
周囲は約三キロメートル。道脇に点在する八つの小高い峰は八神峰と言われる。一番高い所が「剣が峰(三七七六メートル)」の地点である。
激しい雨の中、馬の背と呼ばれる絶壁をよじ登るようにして、足下だけを見て一歩一歩踏みしめて前へ進む。ようやく日本最高峰・富士剣が峰標高三七七六メートルに達し、
土砂降りの中その狭い頂点に立つ。天空に最も近い名峰富士の頂点は、私を支え深い達成の喜びを与えてくれた。
私にとって喜寿という人生の節目にこのような挑戦ができ果たせたことに感謝している。
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