高砂支部ホームページ
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1.高砂支部だより (支部役員名簿や行事予定、その他連絡事項) | |||||
2.高砂支部同好会活動の内容 (活動予定及び直近の活動報告を記載) | |||||
世話人名簿 | 囲碁・将棋 | ウオーキング | グラウンド・ゴルフ | ||
ゴルフ | ハイキング | カラオケ | 文化展 | ||
3.ネットワーク便り (10/6)(各部門内での行事予定【職場OB会】等々の連絡及び実施事項等) | |||||
4.高砂文庫 (寄稿コーナー:近況報告、紀行文、エッセ-、詩、短歌、俳句、ノンフイクション等々) | |||||
5.故郷たより (ふるさと便り:会員が居住する地域社会での出来事や歴史等の紹介) |
ウオーキング同好会 |
活動報告
(会長:笹間美之 世話人:神野久典)
平成31年1月17日(木) | 「第108回例会 :京橋から高麗橋まで京街道を歩く」 | 執筆者:岡田 彰 |
平成31年1月17日(木) 第108回例会「ウォーキングコース」 |
京街道は豊臣秀吉が文禄5年(1596)大阪と伏見の二つの城を結ぶ為淀川沿いの堤を整備し、
この堤の道が京街道となった。その後徳川家康が天下の台所への道である京街道をさらに発展させた。 JR京橋駅で参加者17名が集合、天気は良く1月にしては気温も高く快適な条件でウオーキング開始。 まず京阪京橋駅前の江戸時代の道標(文禄9年銘1826)を確認し、京阪電鉄の線路沿いの道を行くと道端にのだばし跡の石碑があった。 野田橋は秀吉時代に鯰江川に掛っていた。しかし川は昭和の初めに埋め立てられ、 現在は橋の石碑だけが残されている。 土佐堀通りに入り、寝屋川橋東詰から寝屋川を渡って大阪城に向かうとすぐにレンガ作りの建屋が見えてくる。 この建屋は大阪砲兵工廠の化学分析場跡である。砲兵工廠は明治3年(1870)に設置されたのが初めで、1940年には陸軍所属となり、 太平洋戦争の敗戦まで大口径の火砲を主体とする兵器製造を担った。アジア最大規模の軍事工場であった。 現存するのはこの化学分析場跡だけでこの建屋も現在は廃墟となっている。 城の外堀を渡り京橋口枡形の城内第2の巨石「肥後石」を見る。 表面積が約33畳敷(54.17m2)あり加藤清正が運んできたと伝えられてきたが、実際には徳川時代の城再構築時岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。 この巨石を重機の無い時代にどう組み立てたのかは興味のあるところである。 さらに城内にはいると大阪城天守閣の良く見える撮影スポットがあり、そこで集合写真を撮った。 土佐堀通りに戻り天満橋交差点から天満橋へ向かい、橋の手前から川沿いの遊歩道を行くとすぐに「川の駅はちけんや(八軒家浜跡)」に出会う。 江戸時代に大阪を代表する船着場で京伏見との間を30石船が運行していた。船宿等が8軒並んでいたので八軒家浜と呼ばれた。 新選組や坂本龍馬も利用していたと記されている。ここには観光船の待合室があり、 ここで昼食、寒さを避けられ助かった。 そこを後にして高麗橋に向かう。高麗橋は東横堀川に掛けられている。 この川は大阪城築城の時外堀として改修されたらしく慶長九年(1604)の銘のある橋の鉄製擬宝珠が残されている。 江戸時代には諸方への距離を測る起点になっていた。 京街道から離れ銅座跡を通り適塾跡に、適塾は緒方洪庵が1838から1862まで開いた塾で、 全国各藩から約1000名が学んだ。塾生の中には福沢諭吉、橋本佐内、大村益次郎等幕末、明治で活躍した多くの人物が学んだ。 現在は大阪大学医学部の管理になっている。料金260円を払って内部を参観。 一人一畳と狭いスペースで切磋琢磨し学んだ若者たちのエネルギーが感じられる 空間であった。 最後に北浜の五代友厚像が立っている大阪証券取引所にて解散し今日のウオーキングを終了した。 豊臣、江戸、幕末、明治と時代を感じながらの今日のコースであった。 |
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