高砂支部ホームページ
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1.高砂支部だより (支部役員名簿や行事予定、その他連絡事項) | |||||
2.高砂支部同好会活動の内容 (活動予定及び直近の活動報告を記載) | |||||
世話人名簿 | ゴルフ | ウオーキング | グラウンド・ゴルフ | ||
ハイキング | カラオケ | 予備 | 予備 | ||
3.ネットワーク便り (10/6)(各部門内での行事予定【職場OB会】等々の連絡及び実施事項等) | |||||
4.高砂文庫 (寄稿コーナー:近況報告、紀行文、エッセ-、詩、短歌、俳句、ノンフイクション等々) | |||||
5.故郷たより (ふるさと便り:会員が居住する地域社会での出来事や歴史等の紹介) |
ウオーキング同好会 |
活動報告
(会長:笹間美之 世話人:神野久典)
令和2年1月16日(木) | 「第120回例会 : 尼崎七社と再建された尼崎城を巡る」 | 執筆者:谷口 正和 |
令和2年1月16日(木) 第120回例会「ウォーキングコース」 |
令和2年初の例会は、数日前から本格的な冷え込みが始まった1月16日(木)朝10時前、 JR神戸線尼崎駅改札出口に同好会員20名とM会員の知人U氏(大阪支部)ご夫妻の計22名の参加者が集合し、 新年の挨拶とコース紹介を早々に済ませ、10時ジャストに歩き始めた。 尼崎駅前から南下する道路(大物(だいもつ)線)を真っすぐ約1.2kmで1番目の「長洲天満宮」に着く。 長洲天満宮の創祀は仁徳天皇の御代と伝えられ海路の要所として交通安全、厄除けの神として尊ばれた。 本殿は棟札により建築は1607年であることが判明している。手水舎の傍には管公足洗之池があり、 菅原道真が太宰府に左遷される道中、大物が浦で潮待ちのため下船し砂浜を長洲の里に向い歩いている時、 道真の足元が砂で汚れたので、村の老婆が見かねて池の水で足を洗い清めた池と伝えられている。 大物線を更に南に歩き、稲川橋交差点で国道2号線を渡り大物公園に入るとすぐ、デコイチ(D518蒸気機関車)が目に飛び込んできた。 そしてデコイチの動輪上部の歩廊には、あたかも番をしているように虎縞模様の猫が座っていた。 金網で囲って展示されており、人が入れないのでノラ猫が住み着いたのであろう。 大物公園をちょっと東側に出てすぐに「残念さんの墓」と呼ばれる、長州藩士山田文之助の墓がある。 文之助は1864年の禁門の変に従軍し京都から敗走途中尼崎藩に捕らえられ取り調べ中に自決し、 死に際に「残念、残念」と叫んだと言い、「残念さん」と呼ばれるようになった。 残念さんの墓から大物公園を抜け大物線に戻り南下を続け、阪神大物駅を過ぎて大物北交差点で右折し西進する。 大物郵便局を過ぎ100m程で交差点を左折しすぐ50m先で右折して通学路のような生活道路を歩く、 旧城内中学校跡を利用している尼崎市立文化財収蔵庫を過ぎ200m程歩くと 尼崎城が右手に見える交差点を左折してすぐに「櫻井神社」に着く。 櫻井神社は明治15年尼崎城内西三の丸跡に建立され、櫻井松平家(松平氏、明治以降は櫻井氏に改姓)の初代信定から16代忠興までを祀る。 櫻井松平家は7代目で断絶するが8代目忠重の時に徳川家康のはからいで再興する。そして10代目松平忠喬が遠州掛川より尼崎城に転封され初代城主となった。 最後の城主忠興は西南戦争で敵味方区別なく戦傷者を看護し、世界赤十字社に認められ日本赤十字社が誕生した。 その後櫻井神社は日本赤十字社の創建者を祀る神社になった。代々の城主は文学・芸能にも優れていたそうで文学・芸能の神様としても祀られている。 その縁で、活動休止の発表を受け、寂しい思いを抱いた嵐(特に櫻井翔くんの)ファンが、 この聖地にも続々と詰めかけているようだ。 櫻井神社から来た道を引き返し、尼崎城が見える公園入口で赤い郵便ポストの上に跨った銀の鯱の出迎えを受ける。 公園の鮮やかな緑の人工芝の上で城をバックに記念写真を撮って、団体割引料金400円で入場する。 尼崎城は1617年に戸田氏鉄が5万石で入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた。 城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わり、戸田氏、青山氏4代、櫻井松平氏7代と続き幕末を迎えた。 1873年の廃城令により一部を除き取り壊され、残っていた建物は戦災に遭い焼失した。 尼崎城があった場所の遺構は完全に消滅していると言えるが、城址公園には石垣及び土塀が模擬復元され、平成30年に資産家の寄贈により外観復元天守が完成した。 再建尼崎城は鉄筋コンクリート造5階建て(棟高約24m)で、入館してすぐにエレベーターで5階の展望ゾーンに上がり 尼崎の街並みを眼下にしながら窓際の可動式のタブレットで同方向の江戸時代の城下町の風景と比較することができる。 階段を下り4階のギャラリーゾーンで尼崎出身の城郭画家「萩原一青」の手拭いに描いた名城百選を観覧する。 3階のなりきり体験ゾーンでは、お姫様、忍者、兜&陣羽織、武士の衣装が体験でき、順番待ちで決めポーズの写真を撮って貰っていた。 2階尼崎城ゾーンでは、VRシアターで剣術、鉄砲の体験、槍や刀の重さ体験などを楽しみ最後は1階尼崎まちあるきゾーンに、 ここでは床一面に映像が映し出された展示室があり縄文時代からの成り立ちや空から現在の街並みを映した「尼崎空中散歩」などが楽しめ、 壁際には、江戸時代に大覚寺の住職が登城の際に使った駕籠が修復・展示されている。 尼崎城を後にして約10分で阪神尼崎駅前の中央公園に着く。陽だまりを探して昼食を摂り、暫し休憩して出発。 阪神本線の高架に沿う道に並ぶ飲食店、八百屋、雑貨店などの陳列や値札を見ながら下町風情を味わいながら歩いていくとすぐに、 ひときわ目立つ朱色の大鳥居が聳え立つ「尼のえべっさん」と親しまれている「尼崎戎神社」に到着。 えべっさんに金運をよくお願いして、元の道を少し引き返しすぐに右折しガード下を潜って真っすぐ南へ約5分で、「世界の貯金箱博物館」に着く。 ここは、尼崎信用金庫職員が趣味で集めた貯金箱コレクションを元に1984年に設立された企業博物館で、 世界62か国の約14000点を収蔵、その中から約2500点を常設展示している世界的にも最大規模のものである。 無料で見学でき、来館記念に縁起が良いとされる宝珠の貯金箱を22名全員にプレゼントされビックリ、 この年になっても嬉しかった。 貯金箱をリュックにしまいながら、南に少し進み左折、国道43号線に沿って5分程歩き「貴布禰神社」に着く。 尼崎には同名の神社が長洲中通りにもあり長洲貴布禰神社と呼ばれ、発祥の地は長洲の神社とされる。 この「貴布禰神社」は中世に尼崎城内に分祀され、戸田氏鉄の時代に移転され、更に1715年に現在地に移転された。 貴布禰神社は「尼のきふねさん」と親しまれ、 又、いわゆる尼崎のだんじり祭りとして知られる夏祭りも盛大である。 貴布禰神社を通り抜け北進、再び阪神本線のガードを潜り、国道2号線を渡って400m程で右折しすぐに鎮守の森が見え「難波八幡神社」に着く。 この神社は仁徳天皇の御世(4世紀)の創建と伝えられる古社「難波祝津の宮跡」で、夏祭りには湯立神事が行われ、茅の輪くぐり、 子供太鼓の巡行が行われ、「なにわのはちまんさん」と親しまれている。「はちまんさん」を出て、元の道を引き返し、近くの「難波熊野神社」に詣でる。 難波熊野神社は「史跡 伝 難波の海」の宮として応神天皇の旧き御世よりの名所といわれ、 又、3月の「梅まつり」も有名な梅の名所でもある。 ここから、更に北進を続け橘公園の前で左折し、七松小学校の角で右折、200mで本日最後七番目の「七松八幡神社」に到着した。 由来によると創始は1019年、源頼信によるとされ、刀伊の入寇に際し、勅を得て討伐し終えた頼信が凱旋した折、小村に立ち寄った。 すると童がこの地の窮状を訴えたため、村にあった1本の松の木のそばに6本の松を植えて神社を創建したという七松の地名もこの時の故事に因む。 境内の一角に、戦国末期の悲劇を伝える碑がある。「七松城落城 なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑」と刻まれた石碑である。 この碑は、有岡城主・荒木村重の謀反の結果、織田信長により処刑された人々の慰霊碑である。荒木村重の謀反のきっかけは謎多く、結末は無惨であった。 有岡城に籠もって抵抗したくだり以降は、長くなるので割愛する。(詳しくは「信長公記」やその他文献を参照されたい) 七松神社を出て約10分歩いて14時半過ぎ、JR立花駅前に着き解散となった。厳しい寒さに見舞われるかと覚悟して臨んだが、 一日中陽射しに恵まれ風も弱く、気持ちよく歩くことができた。 |
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