高砂支部ホームページ
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1.高砂支部だより (支部役員名簿や行事予定、その他連絡事項) | |||||
2.高砂支部同好会活動の内容 (活動予定及び直近の活動報告を記載) | |||||
世話人名簿 | ゴルフ | ウオーキング | グラウンド・ゴルフ | ||
ハイキング | カラオケ | 予備 | 予備 | ||
3.ネットワーク便り (10/6)(各部門内での行事予定【職場OB会】等々の連絡及び実施事項等) | |||||
4.高砂文庫 (寄稿コーナー:近況報告、紀行文、エッセ-、詩、短歌、俳句、ノンフイクション等々) | |||||
5.故郷たより (ふるさと便り:会員が居住する地域社会での出来事や歴史等の紹介) |
ウオーキング同好会 |
活動報告
(会長:笹間美之 世話人:神野久典)
令和2年2月15日(土) | 「第121回例会:白浜・妻鹿を訪ねて~灘の喧嘩祭り・黒田官兵衛の面影」 | 執筆者:清水武史 |
令和2年2月15日(土) 第121回例会「ウォーキングコース」 |
この時期としては気温10℃位と高く、どんよりとした曇り空ではあったが、雨の心配はなさそう。 世の中、毎日、コロナウィルスのニュースで不安を煽られているが、予定通り、 山電「白浜の宮駅」に本日の参加メンバー18名が元気に集合。 出発~!駅を出て、通称「浜国道」と呼ばれる国道250線を渡り、南に真っ直ぐ数百メートル歩くと「松原八幡神社」だ。 毎年10月14,15の両日、他に類を見ない華やかさと熱気の漲る勇壮さで全国的に知られる「灘の喧嘩祭り」は、この神社の秋季例祭の俗称だ。 例祭の歴史は古く、14世紀中頃から行われていたよう。 祭礼スケジュールは14日の宵宮で幕を開け、7地区の氏子たちが、それぞれの地区の屋台を担ぎ上げて松原神社に赴き祭礼気分を盛り上げる。 スリル満点、7台の絢爛豪華な屋台の練り合わせやぶつけ合いで約15万人規模の観客を魅了させるそうだ。 神社前には桟敷席と呼ばれる特設観覧席が設けられており、今は、がらんとしているが、その壮大さが感じ取れる。 翌15日の本宮は、いよいよメインエベント神社西側にある御旅山への神官渡御が行われ、 祭りも最高潮を迎える。 今日の我々も、同じように、神社前から約1km離れた御旅山麓の広畠練り場に向かって松原地区の街中を西向きに歩いた。 古い町並みの残るロマンを感じさせる情緒ある風情だ。突き進むと再び国道250線に出る。 国道両側が段々畑になっており、それがそのまま階段状の大きな特設観覧席となっている。 丁度、球場のスタンドのように国道横の広畠練り場を見下ろせるようになっている。 ここでは3基の神輿と7台の屋台が練り合わせぶつけ合う場となり、高く持ち上げられては、 壊れるまで激しくぶつけ合い観覧する人々を興奮の坩堝に入れる。 やがて当番地区の屋台と3基の神輿が広畠の練り場から御旅山中腹の小高い丘の「御旅山八幡神社」へと 山登りに入る。我々も同じ道を登った。かなり急な上り坂で、登ると共に視界が広がり見晴らしがよくなってくる。 登り切った広々した丘の北側に「松原八幡神社」の本殿のみの拝殿のない小さな社が見えてくる。 ここで我々も一息入れた後、お祭りルートとは決別し、尾根伝いに標高140mの御旅山の頂上を目指した。 この尾根伝いの道には4世紀頃のこの地方の豪族達の古墳が散在しており、銅鏡、鉄剣、銅や鉄の矢じり、ガラス玉など貴重なものが出土されている。 周囲は低木しかなく、石がゴロゴロしているが視界良好な登山道で頂上のカラフルなテラス風の休憩所が遠くから見えており、それを目指し、登り切った。 標高の割には周囲に遮るものがなく素晴らしい展望だ。 南は播磨灘が広がり、家島諸島、その向こうには小豆島が見渡せる。 姫路市、高砂市、加古川市の播磨臨海工業地帯がパノラマのように広がって、遠く、カネカ高砂工業所の煙突も見えた。 この素晴らしい景観を見ながら、11時過ぎの少し早めの昼食。曇り空ながら、気温も高く、ほとんど風もないので、絶好のハイキング日和か。 若いハイカーはいないが、我々の年代に近い元気な年配者が次々と登ってくる。全員集合写真を撮って、北西の斜面を下山。 かなり急な勾配になっており、距離的には1㎞程と短いが石や岩が多く、慎重に歩を進め、 市川沿いに南北に広がる妻鹿地区にやって来る。 この妻鹿地区は、平成26年NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で、「黒田官兵衛ゆかりの地」として、脚光を浴びた。 ここからは「黒田官兵衛」の面影を浮かべての史跡めぐりとなる。登山道を出て、西に向かい市川沿いに聳える甲山山麓を歩く。 梅の花が見ごろを迎えており、紅梅、白梅、しだれ梅を十分に楽しめる。 市川の堤防近くに来ると官兵衛ゆかりの山城「国府山(こうやま)城」の登り口「荒(こう)神社」にやってくる。 境内には国府山城の別名「妻鹿城址」と書かれた石碑があり、黒田家ゆかりの「目薬の木」も植えられていた。 城址は神社参道横から山中に入り、わずか標高100m程の低い山の「甲山」の頂上にある。 元弘の頃、妻鹿孫三郎が構居した処と伝えられ、その後、200年余り後に官兵衛の父、黒田職隆(もとたか)が築城したとの事。 その後、家督を継いだ官兵衛が自らの居城だった姫路城を秀吉に献上し、この城に移り住んだ。 この小規模な山城の要砦、眺望、物資輸送のすばらしさが、築城の名手とされる官兵衛のその後の築城の手本になったといわれている。 主郭からの展望はすばらしく、姫路城の城下町、物資輸送に使われた市川の流域、更には播磨灘等をすべて一望できる。 ここから、毛利軍の襲来や、姫路への物資搬入の監視をしていたようだ。 山を下り、市川の堤防に上がり500m程南下し、東に曲がり、妻鹿の街中に入る。 民謡「黒田節」で、豪快な男気を唄われる黒田家家臣・黒田八虎の一人、「母里太兵衛の生誕地」、 国府山城で没した官兵衛の父「黒田職隆の廟所」を巡りながら街中を南下。 山電の踏切を越え、更に100m程南下すると姫路市指定文化財になっている「固寧倉(こねいそう)」がある。 この「固寧倉」は江戸時代の酒井藩の飢饉時などの非常時に備える為、穀物を貯蔵するのに造られたとのこと。 固寧倉を後に西方向に歩を進めると再び、市川の堤防に出て少し北へ上がると本日のゴール地点山電「妻鹿駅」に到着だ! 本日の例会は、距離的には10㎞程だったが、アップダウンがあり、いささか疲れ気味。 心地よい疲労を感じながら各自、それぞれ帰路へ~。 |
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