2016年当時にはボランティア駅長上谷さん(高砂市)がおられて、出発前と各遺跡で詳細な説明を受けた。
その中で最も印象に残っているのは、昭和20年8月6日にここから飛び立った紫電改が、広島上空で原子爆弾に遭遇して、
日本人でただ一人上空から悲惨な状況を見たという話である。
(「広島原子爆弾 紫電改」で状況や操縦士のことなどが検索できます)
以上の話などを伝えた出発式の後、集合写真を撮って初参加の1名と共にスタートした。
最初に訪れたのは「弾薬庫跡」で、他の防空壕の2倍以上の1mの厚みのコンクリートで覆われた頑丈な倉庫だった。
直ぐ近くの「素掘防空壕跡」は、昭和20年3月19日の米軍戦闘機攻撃の後、
急遽兵員避難のために崖崩れしにくい場所に素掘りで掘られた4箇所の内の一つだった。
衛兵詰所と面会所の横に作られた「防空壕跡」はコンクリート製で、詰所の兵隊と面会者のために作られたもので、
30名ほどが避難できると書かれていた。2016年には中に入ることが出来たが、今は閉ざされていた。
「門柱・衛兵詰所跡」は、姫路海軍航空隊の入口で、2016年では何も無かったが、
門柱と詰所が整備され、工事の際に発見された門柱基礎が展示されていた。
次に訪れた「対空機銃座跡」は、低空から侵入してくる敵戦闘機に対して射撃する対空機銃が設置されていた場所で、
現在5箇所中4箇所が当時のまま残っていて、2016年には無かったが、
東映映画「男たちの大和」で使われた機銃模型を借りて設置したと書かれていた。
次の「巨大防空壕跡」は、前回は神戸大学の農場の中にあって道路から眺めるだけだったが、
通路が出来ていて中に入ることが出来るようになっていた。
ここは基地内最大の防空壕で、自力発電施設として使用され、
外部は土を盛って小山のようにカモフラージュされていたとのことで、
土日・祝日には特攻隊員の遺書の映像が公開されている。
その先の「地下防空壕跡」は深さ3mの防空壕で、爆風を防ぐために複雑な構造になっていて、換気口も設けられていた。
この後10分ほど歩くと「鶉野飛行場滑走路跡」に着いた。
全長1200mの滑走路で、当時のままの滑走路が残る貴重な遺跡で、遠くにこれから行く「soraかさい」が見えた。
滑走路の途中には以前に鶉野平和祈念の碑が置かれていた場所があり、
そこの表示板に平成9年に鶉野飛行場の史実調査を発表した上谷さんの記事を見た元特攻隊員や戦友などが、
地元に働きかけて平成11年に建立したと書かれていた。
滑走路を歩き終えると移転された「鶉野平和祈念の碑苑」があり、
その横に昨年4月にオープンした「soraかさい」があった。
中に入ると滑走路南西の工場で作られていた「紫電改」と
パイロット養成や特攻機に使われた定員3名の「九七式艦上攻撃機」の実物大模型があり、迫力があった。
歴史ゾーンでは、姫路海軍航空隊の開隊から終戦までを4編のストーリー映像で紹介されていて、
訓練中の練習生の生活、特攻隊「白鷺隊」、訓練中に当時の国鉄北条線に墜落して
2歳児3名を含む12名が亡くなった列車事故などで当時のことが詳しく説明されていた。
館内には、展示されている実物や写真等の資料の殆どが上谷さんから提供されたとのパネルが有った。
館内で昼食は食べられないとのことから外に出て昼食を食べ、食べ終えて集合写真を撮って法華口駅に向かった
途中で2016年当時のメインの戦争遺跡だったガイドマップに記載の無い「地下飛行指揮所跡」に寄るつもりだったが、
道を一筋間違えて直ぐ近くを通ったが、かなり疲れていたのと1時間に1本の列車に乗り遅れないように駅まで直行した。
この遺跡は空爆の後、指揮所を守るために地下に造られたが、
完成が昭和20年5月で終戦までの3ヶ月程度で使命を終えた(参考写真を添付しました)。
かなり暑かったが全員無事に法華口駅に着いて、13時52分発の列車にも間に合った。
今回のウォークでは戦争の悲惨さと平和の大切さを再度知る機会となり、
休日には無料シャトルバスが法華口とsoraかさい間で運行されていて、また訪れたいと思った。
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