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ウオーキング同好会

活動報告

(会長:末岡義孝 世話人:神野久典)

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令和6年9月12日(木) 「第140回例会:赤穂御崎~赤穂城下町を散策する」 執筆者:上田 卓朗

    令和6年9月12日(木)[ ウォーキングコース ]
      集合:JR姫路駅 →(JR移動) → JR播州赤穂 →(バス移動)→
              野外活動センター → 赤穂御崎海岸の遊歩道 → たたみ岩 → 大石名残の松
                → きらきら坂 → 伊和都姫神社(昼食) → 唐船山 → 赤穂城 → 山鹿素行銅像
                   → 四十七士石像 → 大石神社 → 花岳寺 → 息継ぎの井戸 → JR播州赤穂駅(解散)

     9時30分に参加者15名はJR姫路駅に集合し、姫路発9:40に乗車し、JR播州赤穂に10:11着く。
    駅前発10:25のバスに乗車し、約20分後野外活動センター(亀の井ホテルの1つ手前)で下車する。
     快晴で見晴らしは良く家島諸島・小豆島もきれいに見えたが、
    9月に入ったというのに、非常に暑く参加者は熱中症対策万全でウオーキングを開始した。

1.ウォーキングマップ 2.駅前でバスを待つ 3.バスを降りて出発式 4.坂道を下って海岸遊歩道へ

    ① 赤穂御崎
      「野外活動センター」より、大塚海岸、・福浦海岸を経て伊和都比売(いわつひめ)神社まで約20分。
      海岸の遊歩道を散歩する。
    ② たたみ岩
      干潮時に岩と陸続きになり、岩に渡ると願いがかなうかも・・・・・・
    ③ 大石名残の松
      血涙をのんで赤穂開城を終えた大石内蔵助は、元禄14年(1701)妻子を大坂に送り出し、
      自らも松に名残を惜しみ後を追って山科に向かった。

5.遊歩道を歩く 6.山が雲に覆われた小豆島 7.陸続きになった たたみ岩 8.大石名残の松と石碑

    ④ きらきら坂
      神社の東から海に向かう坂道。おしゃれなお店が並んでいます。
    ⑤ 伊和都比売(いわつひめ)神社
      平安時代からの古社で、もとは海上の岩にあったものを天知3年(1683)、浅野内匠頭長直が移転。
      航海の安全と大漁祈願、縁結びにも御利益があると言われています。
        (少し早いですが、ここで昼食とした。)

9.きらきら坂を登る 10.伊和都比売神社 11.神社前で海をバックに 12.駐車場横の木陰で昼食

    ⑥ 唐船山
      千種川河口にある高さ19メートルの唐船山は、県下の最低峰として地元住民に親しまれています。
      その名前の由来は、日本が唐と交易していた時代、唐船が赤穂の沖で嵐に遭い、宝物を積んだまま沈没し、
      土砂が積もって島となり、現在では地続きの小高い山となったと言い伝えられています。

     これからは赤穂海浜大橋を渡って、赤穂中心部に向かうが、
    日陰がほとんどなく並木の陰で休憩しながらの約3㎞の歩行となった。

13.県下で一番低い唐船山
(砂浜の先)
14.赤穂岬を降りる 15.炎天下の道を歩く 16.涼しい米蔵で休憩

    ⑦ 赤穂城
       赤穂城は、正保2年(1645)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ,
      慶安元年(1648)より13年を費やし、寛文元年(1661)に完成した。
       城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、
      一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。
       本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、
      近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。
       三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。
       明治の廃藩置県まで200年にわたって赤穂藩の居城であった。

    ⑧ 山鹿素行銅像
      承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、
      これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説がある。
      (ただし素行は、赤穂に7か月程度しか滞在せず江戸に戻っている)。

17.城の周囲を歩く 18.厩口門から城に入る 19.城の中を散策 20.山鹿素行銅像

    ⑨ 四十七士石像
      大石神社入口に左右に石像が祀られている。

    ⑩ 大石神社
      大石神社は明治天皇の宣旨を契機として明治33年神社創立が公許せられ、
      大正元年11月、四十七義士命を祀る神社としてご鎮座になった。
      ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の烈士萱野三平命を主神とし、
      浅野長直・長友・長矩の三代の城主と、
      その後の藩主森家の先祖で本能寺の変に散った森蘭丸ら七代の武将を合祀してある。

    ⑪ 花岳寺
      本山を永平寺とする禅宗・曹洞宗の寺院。赤穂藩祖・浅野長直公によって、正保2年に建立され、
      元禄事変後は永井家、森家歴代藩主の菩提寺となる。
      境内には、義士37回忌(1739年)に義士墓所が建てられ遺髪が納められている。
      山門をくぐると直ぐ正面松の木が見えるが、これが「大石名残の松」である。
      もともとは元禄4年(1691年)に大石良雄が母の冥福を祈り植えた松であり、
      元禄14年(1701年)に赤穂を離れるとき、この木の下で名残を惜しんだため、
      後に、このように呼ばれたとされている。
      「大石名残の松」の右手に「鳴らずの鐘」の鐘楼がある。
      もともとの鐘は赤穂二代目藩主浅野長友公の鋳造になるものといわれている。
      その後、三代目藩主長矩公の刃傷事件後、元禄15年(1702年)の四十七士の討ち入り、翌年の切腹と続く。
      この悲報に接した人々は寺に集まり、冥福を祈りこの鐘を打ち続けたといわれている。
      あまりにも撞きすぎたため、以来、この鐘は鳴らなくなってしまい、
      寛政9年(1797年)に再鋳造されるまで鐘の鳴ることはなかったという。
      「本堂」に入った直ぐの天井に「天井絵」が描かれている。
      この絵はもともと五月の節句の幟として描かれた虎の絵といわれており、
      安政元年(1854年)に赤穂の画家である法橋義信によって描かれたとされている。

    ⑫ 息継ぎの井戸
      早水藤左衛門・萱野三平の両名が、
      早かごで主君刃傷の凶報をもって江戸より早駕籠に乗り4日半かけて駆けつけた際、
      この井戸で一息ついて城内に入った。

21.大石神社前の四十七士石像 22.花岳寺の天井絵 23.息継ぎの井戸 24.全員無事に駅でゴール

     これより終点のJR播州赤穂駅までは約0.5㎞、暑い中全員無事駅に到着した。
    今年の暑さは異常で、8月の六甲山上のウオーキングより暑かったが、熱中症で倒れることもなく完歩できた。


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