高砂支部ホームページ

 リンク先:(下記テーブルに示す箇所をクリックするとクリックしたエリアにリンクすることができます)

  高砂トップページ へ  高砂支部だより(支部役員名簿や行事予定、その他連絡事項)
 2.高砂支部同好会活動の内容(活動予定及び直近の活動報告を記載)
世話人名簿 囲碁・将棋 ウオーキング グラウンド・ゴルフ
ゴルフ ハイキング カラオケ 文化展
 ネットワーク便り (各部門内での行事予定【職場OB会】等々の連絡及び実施事項等)
 4.高砂文庫(寄稿コーナー:近況報告、紀行文、エッセ-、詩、短歌、俳句、ノンフイクション等々
 5.故郷たより(ふるさと便り:会員が居住する地域社会での出来事や歴史等の紹介)

高砂文庫(投稿欄)

投稿日:平成25年9月15日(日) 寄稿者:宮本和夫

第83回「日本人の心・視て歩き」
    〜橿原市・今井町の町並み巡り〜 見聞記

観光地を訪れるたびに、案内とか解説の説明板の内容が、簡潔かつ分かりやすく纏められて書かれていることに感服させられる。
 今回訪れた今井町について、よく知らなかったので、同好会世話人より案内のあったWEBページを閲覧し、概要をつかみ、それを簡潔に纏め、ここに紹介しようとしたが、歴史の奥が深くとてもまとめられなかった。法然の選択集から起こすか、親鸞からか、蓮如、石山本願寺、織田信長、豊臣秀吉、今井宗久等々、これらを含めた今井町を簡潔に述べることは、紙面の都合もあって、私にとって至難のことであきらめざるを得なかった。
 ここ数年、デジカメを持ち歩くようになってから、これらの説明板を写真に撮って帰って、パソコンで読むようにしている。これは特に格安ツアーで観光地を訪れた場合等、所定時間内に、より多くの観光地を巡るように計画が組まれているために、説明板にゆっくりと眼を通す時間がない場合が多いからである。ところが、帰ってからよくよく読んでみれば、あれも見ておきたかったし、これも一見の価値があったのか?との悔しい思いをしたことが何度かあり、以降なるべく、現地でも読むように心がけている。

 さて、今回散策する今井町は寺内町ということであるが、寺内町(じないちょう、じないまち)とは、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のことで、濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などで形成された町のことである。
 おもな寺内町は関西圏と北陸に集中しており、その数は約27町に上り、大阪府に11ケ所、奈良県に4ケ所と約半数がこの11県に存在する。兵庫県では、尼崎市寺町にある本興寺と長遠寺で、ここはめずらしく法華宗の寺内町で、あと一つは宝塚市小浜にある毫摂寺(ごうしょうじ)で、これは浄土真宗派で小浜御坊とも称され寺内町として発展し小浜の中心であった。
 これらの27町の中で、今回訪れた橿原市今井町と同じく、重要伝統的建造物群保存地区となっているのは、大阪府富田林市の興正寺(富田林御坊)だけである。

 今回訪れた今井町も、やはり室町時代に形成された浄土真宗派の称念寺を中心とした寺内町で完全な城塞都市であり、江戸時代初期には、概略で東西600m、南北310m周囲には環濠土居を築いた戸数1100 軒、人口約4,000数百人を擁する財力豊かな町であった。町割は西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連結している。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは、敵の侵入に備えて、その遠見、見通し、弓矢・鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産等を外部から守るというものに変貌した。
 現在も、今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、しかも慶安3年(1650)の今西家をはじめ、すぐれた民家が数多く建ち並び、今なお、町全体が戦国時代にできた寺内町の歴史の重さをずっしりと感じさせている。(写真等の説明は、橿原市観光協会パンフより抜粋)

(下記写真はクリックしますと拡大写真を見ることができます。
また、拡大写真をクリックしますと元の写真に戻ります)

近鉄八木西駅に集合 今井町の町並み 今井町の町並み
河合家住宅:江戸時代初期ごろ、「上品寺村屋」
の屋号で酒造業を営んでいる。18世紀中ごろに
建てられた早い時期の2階建の町家で、当時は
認められていなかった2階に座敷等が設けられ
ており、豪商の片鱗がうかがえる建物。
旧米谷家住宅「米忠」という屋号を持ち、広く
金物商を営んでいた。18世紀中頃の建物で、後
に、内蔵や蔵前座敷を増築した。主屋は他家と
異なり5室型で農家風のイメージが強い建物。
音村家住宅:「細九」の屋号で金物問屋を営んで
いた。17世紀後半頃主屋を建て、後主屋西北部に
「つのさしき」を増築し、19世紀中頃、西側に座敷が
追加された。当家は時代の情勢にあわせて逐次増
設されているのが特徴。
上田家住宅:今西家・尾崎家と並び惣年寄りを
つとめた。主屋は祈祷札から延享元年(1774年)
頃の建築とみられる。入口を西側に設け屋根も
他家と異なっている。内部も惣年寄りの特権から
か装飾的な要素が多い。
今西家住宅:今井町の西端にあり、惣年寄りの
筆頭をつとめていた家。慶安3年(1650)に建てら
れた民家だが、城郭のような構造で別名「八つ
棟造り」と呼ばれている豪壮な建物。
豊田家住宅:旧は、木材商「西の木屋」牧村家
の所有で、幕末には大名貸しを行い藩の蔵元な
どつとめていた豪商。建物は寛文2年(1662)に
建設されたもので、今西家住宅と並び、今井町に
おける上層町屋の好例。
ボランティアーの説明を聞く参加メンバー 今も一部に残されている環濠 土居(土塁)築かれていた場所

昔からの建造物が約500棟、重要文化財8棟、県文化財2棟が、ほぼ16世紀とほとんど変わらず残されている。こんな立派な町並みがよく保存されていたものと思う。しかも非常に手入れも行きとどいており、今も、そこにたくさんの一般の人が居住されているのも魅力の一つである。
 実際には、大屋根の瓦は、近年に葺き替えられたものか?ま新しく感じられるし、また、町並みはきれいに残されているが、これに比べて、環濠土居については、環濠は一部しか残されていず、土居(土塁)にいたっては、ここがそうであったとの説明があったが、どのような土居であったか想像してみるしかなかった。

称念寺山門(談山神社から移築) 明治天皇駐蹕之処の碑 今井町まちなみ交流センター「華甍」

 今井御坊と呼ばれた称念寺は浄土真宗派の寺院で、本堂は修復中のためテントで覆われみることができなかった。浄土真宗派の寺院で本山の本願寺以外で、国の重要文化財として指定されているのは、この本堂だけであり、工事中で何も見られなかったことはとても残念であった。
 称念寺を開いて、堀と土塁を形成して寺内町として栄えた今井町であるが、若し、これら
環濠土居が残されていたら、町そのものが砦として織田信長に対抗しようとした息吹が感じられて、もっとイメージが違って見えたかもしれない。しかし、今井宗久らのとりなしがなかったら、このような立派な寺内町が、後々まで残っていなかったと思うし、今となってはよくぞ戦わずに断念してくれたものと思わざるを得ない。この同好会の第82回の行事で新島八重の京都での活躍の跡を行脚しながら、八重が属する会津藩主の松平容保公が若し歴史の流れや戦況を見誤っていなければ、会津の人々があのような苦労をせずに済んだのにと同行者と語り合ったことを思いだした。戦う道もあり、戦わない道もあり、どちらを選択するか?このような岐路に立たされることはよくある。歴史に何を学ぶのか?今も問われている。
 今回の橿原市・今井町の歴史に触れ、先人に思いを馳せ、何を感じ、何を学んだのか?は、人、夫々違っていていいと思う。だが共通して言えることは、こうした歴史ある町並みを旧知の方々と楽しく語りあいながら、一緒に散策できるチャンスに巡りあえたこととと、このチャンスを活かせる健康のありがたさは何物にも変えがたいものだと思う。今回も病気を克服され参加された方と久し振りにお会いすることができ感慨無量であった。また、このような企画を楽しみにしております。どうもありがとうございました。

(昼食後、一人で橿原神社へ参拝したので、「今井町から橿原神宮へ」を番外編として紹介します)⇒番外編へ


このページのトップへ

高砂支部トップへ