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掲載日   タイトル  投稿者  ジャンプ
   2021年   
 2021/12/1  茶の話 第4話      吉田洋一     
2021/12/1    我が家の秋薔薇  中山 宣男   
2021/12/1   私の「フォト五七五」 
師走 二題   
 牧 虎彦   
2021/12/1    私の写真いちおし  
黄金色輝く季節(とき) 
 山下 勝治   
2021/12/1   埼玉の風景; 奥武蔵の紅葉  泉名政信  
  2021/11/1  茶の話 第3話     吉田洋一    
  2021/11/1   芸術の秋ならぬ芸術の晩秋 中山 宣男   
  2021/11/1  私の「フォト五七五」 
霜月 二題  
 牧 虎彦  
  2021/11/1  私の写真いちおし  
救いの一条の光
  
 山下 勝治  
 2021/11/1   埼玉の風景;コキアのスロープ  泉名政信   
 2021/10/1  茶の話 第2話   吉田洋一      
  2021/10/1   紅葉と那須連山  中山 宣男   
  2021/10/1  私の「フォト五七五」 
神無月 二題    
牧 虎彦    
  2021/10/1  私の写真いちおし  
メルヘンの国へご招待
 
山下 勝治    
2021/9/1  茶の話 第1話 

吉田洋一  

 
 2021/9/1 那須高原の夏と相棒居眠りガビ  中山 宣男   
 2021/9/1 私の「フォト五七五」 
長月 二題   
牧 虎彦   
 2021/9/1  私の写真いちおし  
漁師の休養日
山下 勝治   
 2021/9/1 埼玉の風景;宴のあと?  泉名政信    
 2021/9/1 Sophie & Marc  金井文昭   
 2021/8/1  愛犬ガビのポートレート(油絵)と薔薇地図   中山 宣男  
 2021/8/1  【新-漢字小景–10】 
 「色」と「商」(最終回)
 吉村 正
(志田 唯史)
 
2021/8/1   私の写真いちおし  
梅雨が開けた!!   
  
 山下 勝治  
2021/8/1    私の「フォト五七五」
葉月 二題   
 牧 虎彦   
 2021/8/1   埼玉の風景;五千頭の龍 泉名政信   
 2021/8/1   Sophie with Daddy and Brother  金井文昭   
 2021/7/1  水彩画 その1   中山 宣男  
 2021/7/1 埼玉の風景; アナベルの道案内
泉名政信     
  2021/7/1 【新-漢字小景–9】 
オスとメス(4)
 吉村 正
(志田 唯史)
 
  2021/7/1 私の写真いちおし  
空中散歩で黄昏時を   
 
山下 勝治   
  2021/7/1  私の「フォト五七五」
月 二題  
牧 虎彦   
 2021/6/1  埼玉の風景; 日本一   泉名政信    
  2021/6/1   【新-漢字小景–8】 
オスとメス(3)
 
吉村 正
(志田 唯史)
  
 
 2021/6/1  私の写真いちおし  
俺はコロナに負けないぞ   
  山下 勝治   
 2021/6/1  私の「フォト五七五」
水無月 二題
  
牧 虎彦    
  2021/6/1 油絵 小平周辺 万年橋  大滝 恒雄    
 2021/5/1   趣味のバイブル 吉田洋一   
2021/5/1   埼玉の風景; 風土記の丘  泉名政信   
2021/5/1  私の写真いちおし  
「新型花咲爺横浜へ
  
 山下 勝治   
 2021/5/1  私の「フォト五七五」
 皐月 二題 
牧 虎彦   
 2021/5/1 天城峠 浄蓮の滝  金井文昭   
2021/4/1   埼玉の風景;桜   泉名政信    
  2021/4/1  【新-漢字小景–7】 
オスとメス(2)
吉村 正
(志田 唯史)
 
 
 2021/4/1 私の写真いちおし  
春の息吹 
 山下 勝治   
 2021/4/1 油絵 女性シリーズ4    大滝 恒雄    
 2021/4/1  私の「フォト五七五」
 卯月 二題
牧 虎彦    
 2021/4/1  伊東の春 金井文昭   
  2021/3/1  埼玉の風景;無重力 泉名政信     
  2021/3/1 【新-漢字小景–6】 
オスとメス
吉村 正(志田 唯史)    
   2021/3/1 私の写真いちおし  
希望(HOPE)」 
山下 勝治    
   2021/3/1  油絵  「天上の里 大滝 恒雄    
   2021/3/1 私の「フォト五七五」
 弥生 二題
牧 虎彦    
 2021/3/1 富士山と桜を求めて
伊豆サイクリング 
金井文昭   
 2021/2/1  埼玉の風景; 寒紅梅   泉名政信   
 2021/2/1   【新-漢字小景–5】 しつこく「男」と「女」 吉村 正(志田 唯史)  
 2021/2/1  私の写真いちおし 
 「観音様とご一緒に」  
山下 勝治   
 2021/2/1  油絵  「庄内田」 大滝 恒雄   
  2021/2/1  私の「フォト五七五」 
如月 二題
 
牧 虎彦   
 2021/1/1  埼玉の風景;飯能の禅寺   泉名政信     
 2021/1/1 

【新-漢字小景–4】 
ふたたび「男」と「女」
 

吉村 正(志田 唯史)     
 2021/1/1  私の写真いちおし 
 わーい、ママと一緒! 
山下 勝治    
 2021/1/1   油絵 女性シリーズ3 

「孤児院の読書する少女

大滝 恒雄    
 2021/1/1   私の「フォト五七五」 
睦月 二題
牧 虎彦    
 2021/1/1    私のフォト575 
季節の短信2021年その1
藤井 正克     


   水彩画
 <夏二題> 
 
 
  原田 祐夫

 真夏の風景
わが町の東の空に現れた雲を描いてみました。カンカン照りの日で人影もなく、西部劇のような街の姿でした。 
 信松院のほおずき 
八王子市にある古刹で武田信玄の四女松姫(松姫最中というお土産があります)が武田家滅亡の折 八王子まで逃れて、身を寄せたといわれる信松院。そこの門前のほおずき市で手に入れたものを水彩画にしてみました。夏の雰囲気が伝わればと思います。


 
 


 茶の話 第11話ーー吉田洋ーー 


<日本茶の健闘

日本では喫茶の文化を独特の茶の湯として発展させ、さらに「茶道」のまで昇華し、茶文化を世界にも発信してきました。そこには茶の美味しさだけでなく、もてなしの心が込められています。また茶の湯総合芸術とよばれ、作庭や建築、室内装飾などにも深い影響を及ぼしてきました。日本からの海外への茶の展開をご紹介しましょう。

江戸初期1610年に茶は日本から初めて西欧に輸出され、やがて安い中国茶に代わられていきましたが(第2話)、江戸末期に復活します。江戸時代も終わりに近づいた1853年の黒船到来の翌年、初代在日領事となるハリスが来日し、「日米和親条約」が締結されます。そして1858(安政5)年には国内の5港への米国船の入港や貿易などを約束した「日米修好通商条約」が結ばれます。合衆国独立から80年しか経っていない時期です。


そして米国との貿易がスタートしますが、日本茶の輸出に活躍した人物がいました。佐賀の嬉野茶を日米修好通商条約の締結に先駆けて1856年に米国に売り込んだ長崎の油問屋の娘大浦慶と、日米修好通商条約締結を受けて茨城の猿島茶1859年に米国向け輸出を開始した茨城県の豪商・中山元成です。大浦慶は茶のサンプルを米国、英国などに送り、米国から大量の注文を受けて、嬉野茶だけでは足りず九州一円から集めて輸出したといいます。これが日本茶輸出復活の先駆けでした。1865年米国の南北戦争終結後には爆発的に増え、長崎からの輸出が全盛期を迎えました。

万国博覧会に日本が初めて出展したのは幕末の1867(慶應3)年4月のパリ万博で、この年11月に大政奉還がなされています。このパリ万博には幕府と共に薩摩・佐賀両藩が出展しました。幕府からは徳川慶喜の弟・昭武が派遣され、渋沢栄一も随行していました。 フランスナポレオン三世の時代で、極東の島国日本の出展品は珍しがられ、
ジャポニズムの契機となりました。出店の中で唯一商人の清水卯三郎茶店を開設し、人気を集めました。茶店は檜造りの六畳で、着物を着た柳橋の芸妓三名が茶や味醂を客に供しました。現地のメディアでも 茶店の女性が話題となり、ナポレオン三世から卯三郎に銀メダルが授与されたといいます。 ここから我が国の文化の紹介に「茶の文化」は欠かせない存在となりました。
1876(明治9)年フィラデルフィア万博では産業館で初めて日本茶が紹介され、茶道具と、ガラスに入った見本茶が展示されました。日本館は本館と数寄屋風建築の工芸品販売店が建てられ、茶室も設けられて、茶の点前が披露されました。1893(明治26)年シカゴ万博では日本は日本館として宇治の平等院鳳凰堂を模した日本館と日本庭園を建設し、
茶業界(茶業組合中央会議所) が、海外販路拡張を目指し喫茶店を出店しました。茶室での抹茶席、玉露席、普通茶席が設けられ、喫茶店は大好評だったと報告されています。以後、万博は日本茶の重要な広告、営業、市場調査の場として活用されます。その当時は米国では緑茶にも砂糖やミルクを入れて飲むのが一般でしたが、1898年オマハ博 の喫茶店では、客にできるだけストレートで飲むように勧めたそうです。

第10話で紹介したアイスティーが誕生したという1904 (明治37) 年のセントルイス万博では日本は日露戦争中でしたが、日本庭園の中に紫宸殿風の本館に茶道の点前をする美人人形と染付茶壺も展示した他、金閣寺を模した建物と台湾館に喫茶店を出し、美術工芸品も展示しました。喫茶店で着物を着た日本女性の振る舞いは現地で話題となり、このイメージをもとに米中西部のジャポニスムが形成されていったといわれています。

1899(明治32)年には、ご存じ清水次郎長の貢献により、清水港が第6の海外貿易港として開港し、茶を扱う外国商社も多数置かれ、茶の主要輸出港として長崎港からトップの座を奪い繁栄しました。


次郎長は富士の裾野での茶畑の大開墾も手掛け、静岡茶の名を世にとどろかせました。1906(明治39)年には
岡倉天心の「茶の本(The Book of Tea)」が米国で出版され、茶道の歴史や茶室、茶道と芸術の結びつきなど、
茶の文化を海外にアピールする契機になりました。

こうして緑茶生糸と並んで輸出の重要品目となり、出荷量も増加していきます。日本茶の輸出先の90%米国で、1891年には2.4万トンの輸出を記録し、日本茶は躍進しました。外貨獲得の重要輸出品として、まさに「摘めよ摘め摘め まねばならぬ 摘まにゃ日本の茶にならぬ」(1912(明治45)年 尋常小学校唱歌)ということだったのです。しかしその後、思わぬ壁にぶつかることになります。 (了)  

   
 パリ万博幕府メンバー シカゴ万博の鳳凰殿 


私の「フォト五七五」 葉月 二題    牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「一枚撮らせて!     ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2022年7月27日

撮影場所:横浜市神奈川区

コメント:ベイクォーター横浜で開催中のランタンナイトでの一場面。可愛い女の子に思わず一枚撮らせてと声を掛けたくなります。

   



埼玉の風景; BONSAI一ーー泉名政信一ー


 

2022725日撮影@大宮盆栽美術館(さいたま市)

 水と肥料をぎりぎりまで切りつめることで樹形を引き締め,同時に木が持つ本来の生命力を引き出すことが盆栽づくりの神髄なんだそうです。世代を越えて受け継がれ数百年の樹齢を誇る盆栽があまたある中、身丈60㎝ほどのこの五葉松は推定樹齢120年、これからが楽しみな一品に見えました。大宮盆栽村では6軒の盆栽園が今も技を競い合っています。
   


東欧留学生を伊東に迎えて ー金井文昭ー


 

7月17日(日)、7月18日伊東国際交流協会主催で明星大学に留学している東欧留学生を伊東に迎えて歓迎の観光案内をして、その後、お国の紹介をしてもらう催しがありました。17日は伊東の小室山、城ケ崎海岸をまわりました。写真は小室山の麓にある茶室で撮った写真です。留学生はジョージア、ルーマニア、ハンガリー、ウクライナの4カ国の出身でそれぞれ伊東国際交流協会のメンバーの家に泊まりました。私の家に泊まったのはルーマニアのAndreea Covalciuc21歳の大学3年生です。英語はなかなか達者でcommunicationは問題なく、刺身も肉もワインも気持ちよく食べて飲んでくれました。若い人達に囲まれて大変楽しい時を過ごしました。もう一枚の写真で私の左側にいるのがAndreea Covalciucです。右側はウクライナのKristina Yehishianで大学1年で2月14日ロシヤ進行時はウクライナ中部ドニプロにいましたが、その後スペインに大変な思いをしたのち逃れたそうです。これらの学生達が平和な日本でしばしの安らぎの時間を過ごすこと、また、これらの地域に早く平和が訪れることを願っています。

   
 

   水彩画
 <白馬村の風景> 
 
 
  原田 祐夫

   白馬はスキー場として全国的に著名なところですが、冬以外はあまり訪れる機会のないところだと思います。三年前にスケッチ旅行で訪れ描いたものです。青鬼集落という棚田で知られている村からの景色です。麓には吊り橋のある白馬公園などもあり、春夏もなかなか良いところです。高速道路を使えば日帰りもできる手ごろなところです。 
   


 茶の話 第10話ーー吉田洋ーー 


<ティーバッグとアイスティー

英国で花開いた紅茶文化は独立間もない合衆国に渡り、大きく進化します。

1900年前後に誕生したティーバッグアイスティーの開発が茶の飲み方を大きく変え、喫茶文化に大きな影響を与えました。

茶はティーポットや急須に入れて湯を注ぎ、蒸らしてから淹れるというのが(以来の)伝統的な飲み方となっていました。茶の淹れ方は手間ひまをかけ、その過程がもてなしのためのセレモニーになりました。そこにティーバッグ革命が起こったのです。

ティーバッグについて最初の記録は1896年英国でスミスという人物がティーバッグ特許を取得との記事です。スミスは一杯分の葉茶をガーゼに包んで糸で閉じたものをつくりましたが、伝統を重んじる英国の喫茶文化の中では定着しませんでした。ティーバッグを日常の飲み方として定着させたのは米国人でした。

その頃、米国の茶の輸入業者は見本錫の容器に入れて小売業者に送り、注文を取っていました。 1908年に米国のコーヒー貿易商であるトーマス・サリヴァンはコスト節減のために絹の袋に入れてサンプルを小売店に送りました。それに対し入ってきた注文は茶そのものではなく、袋入りの茶でした。

紅茶を袋ごと湯につけて淹れるだけで、茶殻を取り出す必要もなく便利だと考えた小売店が一杯分の葉茶を袋に入れて売ることを思いついたのです。

ただ、絹の袋は布目が細かすぎて標準的な茶葉を抽出するのに理想的ではありませんでした。また使い捨てにするには値段も高すぎました。そこでサリヴァンは絹をガーゼに替え、さらによく抽出できるように、茶の茎の部分を砕いたものと、茶葉の加工時に出る茶葉の粉末を袋に入れるようにしました。こうして改良を加えた後、この小袋入りの紅茶を大々的に売り出し、ティーバッグは普及への道を歩み始めたのです。

実はその7年も前にミルウォーキーの二人の女性がティーバッグを発明し、現代のティーバッグにそっくりな「茶葉ホルダー」という特許を申請していました。申請から約2年後の1903年に、二人は特許を取得していますが、市場への売り出しはうまくいかず、普及はしなかったようです。商品的にはサリヴァンのものより、優れているように思われますが残念な結果でした。

サリヴァンは時宜を得たのでしょう。当時の米国は効率と利便性が優先されハンバーガーなどのファーストフードが開発されていた時期で、ティーバッグの需要は急速に高まりました。1920年代以降、レストランやホテルなどで定着し、一般家庭にも広がっていきました。

1950年代には英国でも販売されましたが、最初のうちは人気がなく1963年には3%ほどのシェアにとどまっていました。しかし時代と共に徐々に浸透していき、2001年には英国で消費される紅茶の90%はティーバッグになり、更に2008年には96%と米国の90%を凌駕するほどに普及しました。アイスティー(iced tea)は1904年、ミズーリ州セントルイスの万国博覧会で生まれたとされています。英国の紅茶商人が来訪者に無料の温かい紅茶を配ろうとしましたが、7月の暑い天候の中で見向きもされませんでした。そこで近くのアイスクリームメーカーに氷の調達を頼み、氷を紅茶の中に入れ、「アイスティー」という新しい飲み物が誕生したといわれています。アイスティーはあっという間に売り切れただけでなく、大評判となりました。なおこの万国博覧会の同じ会場ではハンバーガーやホットドッグ、日本で「ソフトクリーム」と呼ばれているアイスクリームコーン(ice  cream cone)などのファーストフードが初めて一斉に紹介されていました。因みにこの万博では飛行船や自動車も出展されました。フォードの大衆車T型が生産されるのはこの4年後のことです。アイスティーについては、実はこの万博より先立つ1879年に米国内で出版されたレシピ本には既にその作り方が載せられています。氷の入ったグラスにグラニュー糖を入れ、その上から濃い紅茶を入れるとなっており、レモン汁を入れると、より美味しく健康になると紹介されています。またセントルイス万博に先立つ1898年のネブラスカ州・オマハ万博での日本館の喫茶店では、なんと日本の緑茶を米国人の好みに合わせ、工夫してアイスティーとして提供し、好評を得たとの記録もあるのです。

どうもセントルイス万博での誕生説は怪しいようですが、現在では、アイスティーが全米のお茶市場の売り上の80%を占めているそうです。 (了)  
   
ティーバッグ セントルイス万国博覧会
   


私の「フォト五七五」 文月 二題    牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「天空を覆う巨人が迫る     ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:2022年6月13日

撮影場所:東京都中央区

コメント:東京駅の赤レンガ駅舎は2012年に復旧工事を終え、創建当時の姿を見せました。現在は周囲を超高層ビルに取り囲まれ天空を覆う巨人に迫られているかの様な姿に!

 



埼玉の風景; 桜堤のアナベル 一ーー泉名政信一ー


 県営権現堂公園4号公演(権現堂桜堤)は、約1000本の桜並木と田畑の菜の花が共演する県内有数の花見スポットですが、紫陽花・曼殊沙華・水仙も見事な色絵巻を披露します。今は紫陽花が盛りで約100種16,000株ほどが色と形を競いますが、なかでも圧巻は桜堤西端の斜面を埋め尽くす3,000株のアナベル。他所では味わえない規模感に浸れます。開花ピーク直前の淡い黄緑色の花の群れが出迎えてくれました。
 

2022619日撮影@権現堂桜堤(幸手市)

 

   水彩画
 <わに塚の桜(韮崎)> 
 
 
  原田 祐夫

 

今年4月5日に現地で描いてきました。前日まで雨が続き心配でしたが、甲府盆地に下ってゆくと南アルプスや八ヶ岳が雪をかぶった姿を見せ、過去最高の景色を見せてくれました。王仁塚の桜はエドヒガンの一本桜で、山梨では有名な桜の一つです。後方に八ヶ岳を従え、立派な枝ぶりで何度見ても飽きません。この村はノーベル賞受賞の前川さんの出身地でもあり、村に寄贈された美術館や温泉も楽しむことができます。また近くの鵡川には山高神代桜(日本最古の桜)もあり、東京からの桜見物にはお勧めです。是非一度足をを運んでみてください。      

 


   水彩画
 <五箇山の合掌造り)> 
 
 
  原田 祐夫

 

富山県五箇山の合掌造りの家を描いてみました。合掌造りというと、岐阜白川郷が良く知られていますが、五箇山もなかなか雰囲気のあるところです。その茅葺きの建物の前に立っただけで何か懐かしい感じがします。白いユキヤナギがいいアクセントになっていました。東京近郊では川崎民家園(小田急線向ヶ丘遊園駅より約10分)で合掌造りに会うことができます。 

 

 茶の話 第9話ーー吉田洋ーー 

<煎茶の誕生>

中国大陸では10世紀頃には茶は漢民族だけでなく、チベット人にも飲まれるようになりました。肉食の遊牧民族もビタミンCの補給のために、茶を不可欠とするようになったのです。 965年茶を専売制とし、チベットへの輸出品としました。北方のモンゴルなど漢民族の周辺の遊牧民にも喫茶の風習が広がり、南宋(1127 - 1279年)では、遊牧民の馬と漢民族の茶を交易する茶馬貿易が盛んに行われました。茶税収は宋の国家収入の4分の1を占めていたと言います。茶の専売制は元王朝の支配以降も継続されました。

明代(1368 - 1644年)になると、「竜鳳茶」などの贅沢な高級団茶の進貢(第7話)は禁止され、葉茶のままで供されることになり、「団茶」とこれをすって粉にした「末茶」は廃れました。そこで、釜炒りした茶葉急須に湯を注ぎ浸出させる方法泡茶法」が開発され、飲みやすく、茶の味が尽くされるようになり、広く民間にも流行しました。それまでは唐以来、茶葉を釜で煮出して(煎じて)飲む方法「煎茶法」で、青臭さがあったのです。

茶を楽しむという文化は、唐・宋時代の宮廷や、文士の高雅な趣味と清雅な遊びから、社会全体の文化生活の重要な位置づけになり、社会生活や、民間の風俗や儀礼などと結びついて、新たな展開をみせました。

一方、お茶を嗜む文人の世界でも、お茶を飲むことを通じ、精神的な楽しみを得、世俗を離れて超然として高潔な境地に到ることが理想とされました。
日本には、江戸時代に入り、来朝した隠元禅師(1592~1673)が黄檗宗とともに明の喫茶法を伝え、釜炒り茶を急須で飲む喫茶法「泡茶法」を広めていきました。栄西から末茶の喫茶法を持ち帰ってから450年ほど後のことです。
18世紀になると「煎茶道」を開いた黄檗宗の僧だった高遊外(1675~1763年)が京都で人々に禅道を交えた問答をしながら簡素な茶店で茶を売りながら暮らし、売茶翁と呼ばれました。また同じ頃、茶葉を釜炒りではなく抹茶用に利用されていた蒸す方法により鮮やかな茶の若芽の緑色を保つ方法が永谷宗円(1681~1778年)によって1738年に生み出されました。

これが現代にまでつながる煎茶の誕生です。日本で生まれた「煎茶」は大陸の唐以来の煎じ茶とは全く別物で、茶色の茶ではなく緑色で甘味ある緑茶となったのです。さらに、茶葉の摘採前の一定期間、茶園に覆いをかける被覆栽培による「玉露」も生み出されました。世は八代将軍吉宗の時代です。売茶翁永谷宗円による煎茶の誕生を喜び、満足したといいます。彼の清貧の茶風は、中国の文人達の老荘思想の無為自然の境地を理想とする暮らしに憧れた文人墨客たちに受け入れられていきました。彼の茶風を慕う人々には池大雅伊藤若冲上田秋成など多彩な知識人が現れ、お互いに刺激し合いながら文人煎茶の喫茶法が形成されて行きました。 

宋代の喫茶法である末茶の飲用法が、日本で「抹茶」として禅の精神と結びつき茶道が形作られたのに対し、明代の喫茶法である葉茶を使った飲用法は煎茶道を形成しました。利休の茶の湯の大成から150年ほど後のことです

茶の湯と結びつき精神世界を形作るものでしたが、権力と結び付くようになり、形式化が目立つようになっていました。これに批判的な目を向けたのが、文人たちで、売茶翁煎茶と禅の教えに清風の世界を思い描き、煎茶の世界に浸っていきました。こうして多くの文人墨客に支持を受けるようになったのです。

現代の日本では「茶道」というと、もっぱらから伝わった抹茶の喫茶法を指し、より新しいからの煎茶の喫茶法が差し置かれているのは、裏千家の免状(極初歩ですが)を持つ私でも、いささか煎茶道に気の毒な気がします。 (了)  

   
文人の茶 煎茶道
   



私の「フォト五七五」 水無月 二題    牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「雲に乗った館が横浜に     ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:2022年4月30日

撮影場所:横浜市 みなとみらい

コメント:全面ガラス張りのザ・カハラホテルの夜景を魚眼レンズで捉えました。白く輝く遊歩道を雲に見立てタイトルと致しました

 



埼玉の風景; 薔薇と裸婦像 一ーー泉名政信一ー


 

明治10年に開設された与野公園は、51,000平方メートルという手ごろな広さの敷地に 天祖神社(与野七福神の一)、広場、遊具、バラ園を配し、子連れの家族等に憩いの場を提供しています。見頃を迎えたバラ園では高密度に植栽された百数十種3,000株ほどの薔薇を鑑賞できます。小一時間あれば香りを愛でながらひと巡りできる、足腰の衰えを感じる者にとって優しいバラ園です。一画に花畑から空へと跳躍するポーズの裸婦像が置かれています。「翔」と題するブロンズ像の伸びやかな姿態をバラの海が際立たせていました。

 

2022年5月18日撮影@与野公園(さいたま市中央区)

 

   水彩画
 <わに塚の桜(韮崎)> 
 
 
  原田 祐夫

 

今年4月5日に現地で描いてきました。前日まで雨が続き心配でしたが、甲府盆地に下ってゆくと南アルプスや八ヶ岳が雪をかぶった姿を見せ、過去最高の景色を見せてくれました。王仁塚の桜はエドヒガンの一本桜で、山梨では有名な桜の一つです。後方に八ヶ岳を従え、立派な枝ぶりで何度見ても飽きません。この村はノーベル賞受賞の前川さんの出身地でもあり、村に寄贈された美術館や温泉も楽しむことができます。また近くの鵡川には山高神代桜(日本最古の桜)もあり、東京からの桜見物にはお勧めです。是非一度足をを運んでみてください。      

 

 茶の話 第8話ーー吉田洋ーー 

<日本の茶文化の発展
茶がいつ日本に伝わったのかはハッキリしていませんが、一般的には805年に唐より帰国した最澄が茶の種子を持ち帰って、比叡山麓の坂本に植えたことに始まると言われています。最近の研究によれば茶葉をそのまま乾燥して保存した碾茶(団茶)がすでに奈良時代には伝来していた可能性が強いといわれています。

平安時代の『日本後紀』には、815年嵯峨天皇の近江行幸の際、梵釈寺(現大津市)の僧永忠が茶を搗いて、煎じて献上したと記されています。永忠は在唐35年の後、805年に帰国しており、この時茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られます。唐から伝来した喫茶法は、磚茶を薬研で細くかくして煮出すという方法でした。815年嵯峨天皇により畿内、近江、丹波、播磨の諸国に茶を植え、毎年献進すること命じられました。

 遣唐使の廃止(894年)後、喫茶の風は一時衰えましたが、に留学し臨済禅を紹介した栄西が南宋の禅寺での抹茶の飲み方を習得し、1191年に種子や苗木を持ち帰ってから鎌倉時代に再び盛んになりました。彼が持ち帰ったのは宋の喫茶法であり、それは茶道に繋がる抹茶の点茶法でした。栄西「喫茶養生記」には心臓病に対する効用が説かれています。当初は薬として用いられたり、戦場や禅堂での眠気覚まし(現在の何倍も濃い濃度の抹茶)が主流でしたが、徐々に普及し、嗜好品として飲まれるようになりました。宋代に禅宗寺院での生活について定めた清規(規則)には茶礼についても記されており、日本へは円爾1241年に持ち帰りました。また1267年には南浦紹明により、宋から茶道具などと共に茶会などの作法が伝わって、次第に華やかさより主人と客の精神的交流を重視するようになり茶の湯、茶道に発展していきました。

茶の湯茶道禅宗と当初から深くかかわり、禅宗の飲茶の礼法の茶礼が原型といわれています。禅寺では1日に数回茶礼が行われ、また行事の節目には全員一堂に会して茶を飲む総茶礼が行われています。僧侶たちの修行のひとつとして「お茶」が存在しているのです。「喫茶去」という禅語もその表れでしょう。これには「まあお茶でもお飲みなさい」という解釈と、本来は「お茶でも飲んで去れ」という叱咤だったとの解釈があるようです。

栄西が開祖となった建仁寺には、四頭(ヨツガシラ)茶礼と呼ばれる古式な喫茶儀礼が行われています。四頭茶礼は4名の正客とそれに随伴する相伴客をもてなすための特別な喫茶儀礼です。

室町時代には、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる遊びが流行しました。また、本場中国大陸から渡ってきた
茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行しました。

これに対し、足利義政の茶の師匠である村田珠光(1422~1502年)が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説き、これがわび茶の源流となっていきました。 珠光は大徳寺の一休禅師に師事して悟りを開いたと言われており「仏法も茶の中にあり」として、禅宗の思想を茶の湯に取り入れました。四畳半の草庵の茶室を真の茶室とし、露地(茶庭)の原型を整え、また珠光が禅師の墨蹟を床に掛けたのが、茶道で床の間墨蹟を掛けるようになったきっかけと言われています。ところで、茶の湯とは「ただ湯をわかし茶を点てて、飲むばかりなること」(千利休)で、お茶を振舞う亭主と、招かれた客とが一期一会の精神で心を通わせ楽しみ合うことといわれ、一方茶道は単なる楽しみではなく、自己の修練の場として、一つずつ作法を習得することを通じて、禅の精神を磨くものだそうです。村田珠光の後に続いたのが、利休の師匠でもある武野紹鴎(1502~55年)で、珠光の茶をさらに侘びたものに改革していきました。「わび茶」千利休(1522~91年)により完成したといわれますが、この茶道の形成時期は、イタリア・ルネサンスの時期と重なっているのは興味深いことです。珠光から利休に至る時代にボッテチェルリ(1444~1510年)、ダヴィンチ(1452~1519)、ミケランジジェロ(1475~1564年)などが活躍していたのです。


 (了)  

   
四頭(ヨツガシラ)茶礼 茶室
   


私の「フォト五七五」 皐月 二題    牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「街をガンダムが     ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:2022年4月25日

撮影場所:横浜市 みなとみらい

コメント:横浜の観光地を巡る全長18メートルの連結バス、BaySide  Blue。本日はガンダム・ラッピング姿で街を走っています。ザ・カハラホテル前での勇姿をご覧あれ

 


埼玉の風景; 牛島の藤 一ーー泉名政信一ー


 
ここは明治初期に廃寺となった蓮花院(真言宗)の境内であった所、弘法大師
(空海;西暦774年~835年)お手植え?と伝えられる藤の巨木があって特別天然記念物に指定されている。根元から分岐した数本の幹は苔むし一部朽ちて痛々しいが、それでもなお700平方メートルの藤棚に枝を這わせそこかしこに花の房を吊り下げている。房の長さは最大2mに及ぶ。2ヘクタールの園内には同程度の藤棚が計三面あって、その豪勢さから関東一の藤園と称されたこともある。
「大きいことはイイことだ」の法則に従ってその座をあしかがフラワーパークに譲ったものの、樹齢の差は圧倒的。現役最高齢の藤の古木が風格ただよう容姿を今年も披露していた。
 

2022年4月25日撮影@藤花園(春日部市牛島)

 


久しぶりのスイス ー金井文昭ー


 久しぶりのスイスです。この前、娘夫婦を訪問したのはコロナ感染前の2019年夏でほぼ3年が経ちました。赤ん坊だったマークも小学校に入り、この9月から2年生です。去年、妹のソフィーが生まれすっかりお兄ちゃんになっていました。出発は4月9日スイスエアの直行便でしたが、週1便に減便され飛行機内はごったがえしていました。航路は写真に示すように、まず、韓国ソウル、から中国北京を経由カスピ海からトルコ上空、ギリシャ、イタリア、チュウーリッヒとロシア上空を避けて、15時間も掛かりました。娘が空港に向かえに来てくれて、家を出てから、ほぼ丸一日かかってバーゼルの家に着きました。ソフィーは結構歩いて、言葉も”ハロー””バイバイ”なんていい始めで可愛い盛りで、2人の孫はなついてくれました。家は3年位前に購入した、庭付きのマイホームで近所の子供も毎日押しかけて楽しくやっている感じです。スイス入国に際してはワクチン接種証明書だけで入れましたが、15日に帰国した際はまず空港でPCR検査を受け、陰性でしたが、出発前のPCR検査をしていなかったので空港付近の指定のホテルで3日間待機、その後PCR陰性でようやく、解放されました。ちなみにスイスではコロナ規制は全て撤廃されマスクはしなくても良いことになり、街では老人を除いてマスクはしていません。でもとにかく孫に会え、無事に帰ってこれて、良かったです。
   
   
 


戦果のウクライナで日本文化を学ぶ学生達 ー金井文昭ー

 3月15日 ロシアの空爆で悲惨な戦いを強いられているウクライナ ドニエプロ大学で日本語、日本文化を学ぶ学生達と明星大学の田中先生の紹介でオンライン交流会を持ちました。
みなさん、とても若く、元気そうでしたが、この会議の前日空爆で一人なくなったそうです。話はとても平和な話で日本の昔話とウクライナの昔話の比較を研究している学生もいました。 ドニエプロは地図で見るとウクライナのど真ん中でみんな無事でいるか心配しています。避難して来たら援助をしますよと申し入れていますが、みなさん、ウクライナにとどまる覚悟のようです。みなさんの無事と一日も早い戦争の収束を祈ります。
   

茶の話 第7話  ーー吉田洋ーー 


 <中国大陸の茶文化

中国大陸で喫茶の風習は前漢時代には原産地に近い四川地方で始まっていたようです。紀元前1世紀・の王褒の「僮約」という書の文中に、「武陽で茶を買う」とあります。当時すでに飲茶の習慣があって、売買が行われていたことが分かります。
同じく前漢の医学書『神農本草経』(紀元前1世紀)には、漢方の祖と言われる神農炎帝にまつわるこんな神話が載せられており、中原地方でも薬用としては知られていたようです。
《神農は自ら山に入り、草木を端から砕いて服用し、薬になるものと有害なものを見分け、薬になる物の効能を人々に伝えた。ある時、神農は一日で72もの毒にあたってひどく苦しんだが、近くにあった、白い花をつけ、さわやかな香りのする若葉を口にしたところ、その葉は腹の中を隈なく移動し、体内の毒が消え、体調も回復した。その葉の様子は、腸を検査するようだったので、神農は、その葉を「調べる草」という意味を込めて「査」と呼んだ。》
「査」がいつの間にか「茶」に変化したと言われています。


後漢(1〜3世紀初頭)の時代に入って、四川地方から始まった飲茶の習慣は揚子江沿いに江南地方にまで広がり、三国時代(3世紀前半)から晋(3世紀後半〜5世紀初頭)の時代には、中原の官僚や王侯貴族など上流階級に喫茶の習慣が流行していきます。宮廷では、茶は酒と同等に扱われていたようです。
三国時代(3世紀)ので編さんされた辞典「広雅」によると、お茶は茶の葉を蒸して臼でついて固めた餅茶を、あぶって砕き粉にして、湯をかけ、ミカンの皮、ネギ、ショウガなどと混ぜて、他の材料と一緒に煮るスープのようにして、飲まれていたようです。

隋の時代になると中国大陸が再び統一され、茶はさらに広まり、「茶」という字も出来て全国的に通用するようになりました。 日の没する処の皇帝・煬帝はお茶を楽しんだでしょうが、日出ずる処の聖徳太子はまだお茶を知りませんでした。

唐代(618年 - 907年)に陸羽によって記された『茶経』は、お茶の起源、歴史から製茶具、茶道具、いれ方、飲み方、産地、心得にまで及んでいます。茶葉は全国で栽培されるようになっていましたが、畑の茶より野生の茶が上であり、日当たりの良い山の斜面の林の陰にあるもので、緑よりも紫のもの、葉の巻いたものが最も上質であるとしています。

茶の飲み方として、餠茶、觕茶(ソチャ)、散茶、末茶があるとしています。觕茶はくず茶、散茶は葉茶、觕茶は団茶のことで乾燥した茶葉を圧搾して固形にしたもの。末茶(抹茶)餠茶を搗(つ)いて粉にしたものです。この時代には、保存や消費地への運搬には固形茶が便利で、餅茶が主流でした。この餅茶の作り方や飲み方についても詳しく書かれており、摘んだ茶葉を蒸し、搗いて型に入れて成形し、日干し後、火で炙って乾燥して餅茶とし、飲用する時は、それを削って粉砕し、塩を入れた湯に加えて煮た後、器に入れて飲む、とあります。

その後、搗いて粉にするのではなく、茶葉を研(す)ってより細かい粉にするようになり、これを研膏茶と呼びました。そして宮廷への献上品として、最高級の研膏茶を固形の団茶にした「竜鳳茶」が作られ、竜脳、珍果、香草などを混ぜて香り付けしたものもあったようです。その後次々に高級団茶が開発されました。 また武夷山の岩肌に生える茶が武夷岩茶として珍重されました。

宋代(960年 - 1279年)は、中国の歴史上、茶文化が大いに発展した時期です。民間でお茶を飲む風習ができてからさらに普及していきました。固形茶(餅茶、研膏茶)と固めない散茶が使われ、どちらも粉に挽いて抹茶にして飲むようになり、一般では、自分で挽かずに飲める、粉状のが主流になりました。抹茶を溶かした茶の瓶を下げて往来を売り歩く商人もいたようで、茶坊茶肆などの茶館も出現しました。唐代に既に始まっていた闘茶という茶の産地を当てる遊びも盛んに行われました。
宋代の初めは抹茶を匙でかき混ぜていましたが、やがてこの抹茶を入れた碗に湯瓶から湯を注ぎ、茶筅で練る点茶法が広まりました。

お茶に関する儀礼も形成され、禅宗寺院での生活について定めた「清規」には茶礼についての定めも記されています。 

日本人の僧栄西が中国から日本に飲茶法を伝えたのは南宋時代(1127年 - 1279年)の1192年ですから、これが茶の湯の抹茶の点て方につながったのです。(了)  

   
餠茶 茶肆
   


   那須高原の    中山 宣男

 
 


私の「フォト五七五」 卯月 二題    牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「春の日の躍動    ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:
2022年3月2
7

撮影場所:横浜市  青葉区

コメント:たまプラーザ美しが丘小学校近くの100段階段を駆け上がる親子をとらえました。桜も満開!!

 


埼玉の風景; 本棚劇場 一ーー泉名政信一ー


 

東所沢駅(JR武蔵野線)から徒歩10分、異形の建物が突如出現! 5階建ての角川武蔵野ミュージアム(デザイン監修:隈研吾建築都市設計事務所)です。均整を欠いた魅惑のオブジェといった風貌で、KADOKAWAによる日本最大級のポップカルチャー発信拠点「ところざわサクラタウン」のランドマーク役をしっかり果たしています。建物内部はやたら空間がありますが、慣れると居心地よく感じられるのが不思議。4階でエレベータを降り、現代アート作品を展示するギャラリーを抜けるとブックストリートがあって9つの文脈で分類された25,000冊の本に出合えます。本を手に取ってずっと眺めている人も見かけました。その奥が今回紹介する本棚劇場です。4階・5階の吹き抜けを使った巨大本棚に実物の書物がびっしりと収められ、これらも手に取ってみることができます。もちろん上の方は手が届きません、本棚の高さは約8mありますから。呆然と立ち尽くすという経験ができます。  

 

2022年3月28日撮影@角川武蔵野ミュージアム(所沢市)

 


茶の話 第6話  ーー吉田洋ーー 


 <合衆国独立とお茶>

アメリカ大陸の喫茶の習慣はニューヨークがオランダ植民地としてニューアムステルダムと呼ばれていた時代に、そこから始まったといわれています。北米大陸での第二次英蘭戦争の結果1667年にニューヨークは英国に割譲されました。

英国とオランダの覇権争いは英国の名誉革命でオランダ総督を国王に迎える形で終息しますが、その後英国はフランスとの北米での植民地戦争(1754~1763年)により、戦費が払底しました。そこで英国議会は1767年「タウンゼンド諸法」という歳入法を制定し、北米植民地が英国本土からの輸入に頼っていた茶、紙、ガラスなどへの税を課して増税をはかることにしました。

この法令により本国議会が一方的に植民地に対する課税権を行使できることとしたのです。これに対し同意なく一方的に課税されるのは英国憲法違反とする植民地側の抵抗に遭い、本国議会はほとんどの税を撤廃しました。しかし茶への課税だけは継続されたのです。

当時は清国が唯一の茶の輸出国で、英・東インド会社が輸入した茶が英国経由で新大陸の植民地へ再輸出されていたのですが、清国から直接北米大陸への密輸がはびこることとなりました。1773年英国は新たに茶法を制定して、東インド会社に米植民地での茶の販売独占権を与え、同社は茶税の課税後でも密輸品に比べ安価となる価格で茶を売り出そうとしました。これに対し、植民地では本国の一方的な課税権を容認することに繋がるのではないかとの懸念から、反対運動が展開されました。

この反対運動はあくまで英国民として、同意のない課税に対しての抗議であり、英本国からの独立という意図はなく、この時点での米植民地の世論としても独立志向はほとんどなかったと言います。

1773年12月アメリカインディアンに扮した一団が、茶を積んだ東インド会社のボストン停泊中の貿易船から積荷の茶箱を「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら海に投げ捨てました。この一団の正体は不明ですが、アメリカの茶の密輸業者ともいわれています。これがアメリカ合衆国の独立戦争のきっかけとなったボストン茶会事件です。これは大量の茶葉で覆われた海を見た市民が「『ボストン茶会』を開いた」と冗談を言ったのがその始まりだいいます。

これに対し1774年に、英議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を講じ、強硬な態度で臨みました。一連の英本国側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いて和解の道を探りましたが決裂し、戦争にまで発展してしまったのです。

独立戦争は1775年から1783年まで続きましたが、1776年にアメリカ独立宣言がなされました。そして1781年のヨークタウンの戦いでの植民地軍の勝利で独立が決定的になったのです。米合衆国の独立は明治維新の90年ほど前のことです。

「ボストン茶会事件」が起こらなかったとしても、米合衆国の独立はいずれなされたでしょうが、この事件が弾みとなって合衆国は誕生に至ったのです。

「ボストン茶会事件」以来、それまで愛飲していたをボイコットする米国人が多くなり、代わりにコーヒーが普及したといわれていますが、米合衆国の紅茶消費のピークは1700年代末の事で、コーヒーの普及は米国の食生活の変化の要因が大きいと思われます。1900年代でも米国での茶の消費は根強く、日本の緑茶も健闘しましたが、その話はまた後程に。

次はまたお茶の本場、中国大陸、日本に話を戻しましょう。
(了)  

   
ボストン茶会事件 アメリカ独立戦争
   


   春の草花と那須連山    中山 宣男

 
 


私の「フォト五七五」 弥生 二題    牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「春を呼ぶ その2    ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:
2022年2月
7

撮影場所:横浜市  JR横浜タワー

コメント:横浜中華街の春節では獅子舞が中華街を練り歩きます。本年はコロナ禍のため、獅子舞の練り歩きは中止され、獅子が桃の木のランタンと共にJR横浜タワーに登場致しました。獅子の得意そうな顔をとくとご覧あれ。

 


埼玉の風景; お氷川さま 一ーー泉名政信一ー


 

神官たちが楼門をくぐり本殿に向かっています。毎月15日は献詠祭、程なくして笙と太鼓が厳かに響き祝詞が奏上されました。ここ大宮氷川神社は第5代考昭天皇の御代の創立と言われ、2500年程の歴史を有する関東最古の社であり、聖武天皇の御代に武蔵一宮と定められたそうです。明治元年には武蔵国の鎮守・勅祭の社として明治天皇御親ら祭儀を執り行われられ、後に官幣大社に列せられました。御祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の三柱。3万坪の境内にある摂社・末社は合わせて13社。一の鳥居から三の鳥居まで真っ直ぐに伸びる表参道は約2kmあって参道の長さ日本一と言います。

この由緒ある神社を地元住民は親しみをこめて「おひかわさま」と呼び敬っています。

 
 

2022年2月15日撮影@武蔵一宮氷川神社(さいたま市)

 



茶の話 第5話  ーー吉田洋ーー 


 <英国の女王とアフタヌーン・ティー>

最初に茶が西欧にもたらされたのは1609年、オランダに日本の緑茶がもたらされたことに始まるのですが、英国で最初に茶が売られたのは50年後の1657年のことです。 

英国で茶が普及し始めたのは、クロムウェルによるピューリタン革命でオランダへ亡命していたチャールスⅡが王政復古で1660年に戻った時に、オランダの喫茶の習慣を持ち帰ってからといいます 
1662年にチャールスⅡのもとにポルトガルから嫁いできたキャサリン王妃中国の茶(緑茶)と当時は貴重であった砂糖を大量に宮廷に持参し、宮廷に茶に砂糖を溶かして飲む習慣を広め、次第に英国の貴族社会にも広まっていきました。(第3話)

英国では中国趣味が高まり、緑茶をポットに入れ、そこにお湯を入れて蒸らす明代からの飲み方が普及し、これを輸入した把手のない茶碗で飲んでいたといいます。熱い飲み物に慣れていなかった西欧人はソーサーに茶を移してさましてから飲んでいたそうです。

1679年英国の商人が輸入したボヘア茶紅茶につながったという話を第3話で紹介しましたが、1700年以降、中国茶の中でも抽出が簡単で西欧の硬水にも合う紅茶が輸入され始めました。
アン女王の紅茶好きは有名でした。アン女王は1689年の名誉革命で追放されたジェームズⅡの次女として生まれ、1702年即位後、1707年スコットランドを統合して誕生した最初の大英帝国の女王となりました。彼女は当時まだ貴重だった紅茶をお茶会だけでなく、朝食でもミルクと高価だった砂糖をたっぷり入れて飲んでいました。これ以降上流階級に紅茶が流行したといわれています。
この流行に乗って1717年に紅茶専門店を開いたのがトワイニング社 で、そこには女性客が紅茶を買いに訪れました。家庭に持ち込まれた紅茶は、女主人の手で客にもてなされるようになり、これが英国の習慣とされるようになりました。紅茶は徐々に一般家庭にも広まり、食料品店でも売られるようになり、1750年頃には紅茶が、緑茶より優位になりました。英国は1760年からの産業革命(~1830年)を成功させると、紅茶はすっかり人々の生活の中に定着していきました。

初代インド皇帝ともなったヴィクトリア女王(在位1837~1901年)の時代、晩のオペラや音楽会の前に軽食や菓子と共に紅茶を楽しむお茶会の習慣が1840年頃からでき、女王もこのお茶会を好んだため、女性の社交の場としてアフタヌーン・ティーと呼ばれるようになりました。
ただお茶とお菓子をいただくというよりは、軽めの食事を兼ねたお茶会で、キュウリのサンドイッチとスコーンなどのお菓子類が2・3段のティースタンドに載せられて出されるのが通常です。キュウリのサンドイッチが定番となったのは、労働者が肉などのヘヴィーな具材をサンドイッチに使っていたのに対し、キュウリを新鮮な状態で食べられる事が上流階級の証だったからといわれています。
これに対し紅茶と一緒にとる夕食のことをハイ・ティーと呼んでいます。アフタヌーン・ティーが低いテーブルで供されるのに対し、ハイ・ティーは食卓用の高いテーブルで供されるからといわれています。アフタヌーン・ティーの習慣が貴族階級から始まったのに対し、ハイ・ティー労働者階級に始まったのです。

英国の紅茶文化は女帝にあずかることが多かったのですね。
(了)  

   
ヴィクトリア女王 アフタヌーン・ティー
   


   アメリカバーモントの雪    中山 宣男

 


私の「フォト五七五」 如月 二題    牧 虎彦

   
   

私の写真いちおし 「春を呼ぶ    ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:
2022年1月27日

撮影場所:横浜市 横浜中華街

コメント:

中華街にある山下町公園は2月1日から始まる中華街春節で行われるパレードの出発地です。公園には春節が近づいたことを知らせ、祭りを盛りあげるランタンが飾られました。

 


埼玉の風景; さぎ山記念公園 一ーー泉名政信一ー


 
 八代将軍吉宗は幕府の財政再建のため多くの新田開発を行った。見沼の干拓事業では、総延長60kmに及ぶ見沼代用水の開削によって利根川の水が引き込まれ、見沼田んぼが整備された。そのころから鷺が飛来するようになり、上野田(さいたま市緑区)の野田山に鷺の営巣地が生まれ、「野田のさぎ山」と呼ばれるようになった。さぎ山一帯は紀州徳川家の鷹場であったため、紀伊殿の囲鷺(かこいさぎ)として特別に保護されたとのこと。いっとき 国の特別天然記念物に指定され、雪を散らしたかのように林が真っ白に見えると称えられたが、その後の減反政策(畑化)や都市化等によって、昭和40年代後半になると鷺は営巣しなくなった。(Wikipedia、見沼たんぼホームページ、他)
今は一部が「さぎ山記念公園」となっていて、ここの釣り堀には常連たちが早朝から陣を張り日が傾くまで竿を操っています。厳寒であっても陽射しの温もりが心地よく、餌さえあれば、鷺たちも棲み続けたに相違ありません。
 

2022年1月23日撮影@さぎ山記念公園釣り堀(さいたま市)

 


   アルプスの雪景色    中山 宣男

 


睦月 二題   牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「光のクリスマスリース   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:
2021年12月21日

撮影場所:横浜 赤煉瓦パーク

コメント:新型コロナウイルスが跋扈しております。新患者が少ない今を、コロナ禍が収束を

祈りつつ、皆でクリスマスを楽しみましょう。

 

   


埼玉の風景; 奥武蔵の紅葉 一ーー泉名政信一ー


駐車場から公園へと続く緩やかな坂道は、この先の別世界を予告するかのようなメタセコイアの樹列で縁取られています。「トーベ・ヤンソンの想いは、公園内のいろいろな処にちりばめられています/子どもも、大人も、生き物も、草花も/それぞれがお互いを受け入れ、自由に時間を過ごす/そんな空間が、トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園です」平成9年にオープンした都市公園のパンフレットにはこう書かれていました。

ムーミン一家がどこかに隠れている?と思わせる空気感。異国的でありながらどことなく見覚えのある子ども劇場、森の家、きのこの家、見晴し橋、そして水浴び小屋。ここは、正真正銘、埼玉県です。

 
 
@トーベ・ヤンソン あけぼの子どもの森公園(飯能市)
 

茶の話 第4話  ーー吉田洋ーー 

喫茶店とコーヒーハウス

日本で喫茶店というと、紅茶だけでなくコーヒーも飲める処ですが、西欧でコーヒーハウスというと 、コーヒーだけでなく紅茶も飲めるところなのです。西欧にはお茶とコーヒーはほとんど同時にもたらされましたが、コーヒーの方がわずかに早く紹介されたので、コーヒーの名が冠されたのです。

コーヒーハウスの元祖はオスマン帝国(トルコ)のカフヴェハーネ(コーヒーの家)で、そこは庶民や知識人が集まって懇談したり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場でした。「炉端の会」みたいですね。1555年にイスタンブールに最初のコーヒーの家が開かれ、1570年頃には600軒を超えていたといいます。

同じ頃、日本は戦国時代から安土・桃山の頃、社交の場としての茶室文化が花開いていました。お茶室は簡素を旨としていましたが、コーヒーの家は豪華な作りだったようです。

西欧では1630年代にはベニスやアムステルダムにコーヒーハウスが続々誕生し、オスマン帝国に接するオーストリア帝国のウィーンでもコーヒーハウスが発達しました。ウィーンでは1683年のオスマン軍の第2次ウィーン包囲の時、退却したオスマン軍陣営に残されたコーヒー豆を使って最初のコーヒーハウスがオープンしたという伝説がありますが、1665年にウィーン駐在のオスマン大使によってコーヒーが紹介され、ウィーン包囲より前にすでに2軒のコーヒーハウスがあったといわれています。

英国では1650年にオックスフォードでコーヒーハウスが営業を始め、1652年には初めてロンドンにもコーヒーハウスが開業しました。当初コーヒーハウスは貴族や文化人の社交の場でしたが、次第に大衆化し一般人にも門戸を開くようになりました。そこでは酒類は出さず、異国の飲み物とされたコーヒー、紅茶、カカオ、タバコを楽しみながら政治談議や世間話をして、世論形成の場として英国の民主主義の基盤として機能したと言われています。また商取引の場ともなり、海運保険会社のロイズ社はコーヒーハウスに集まる業者のやりとりから起業したということです。

余談ですが、当時のコーヒーハウスにはTIP(To Insure Promptness)と書かれた木箱が置かれており、客が混雑している時に早くコーヒーを運ばせるために木箱にコインを入れたことが、チップの始まりです。

英国では1717年にはトワイニング社紅茶専門店「ゴールデン・ライオン」を開業して成功を収めました。この店には女性客が紅茶を買いに来て話題となりました。当時のコーヒーハウスは女性禁制でしたが、これ以降紅茶は女性にもひろく愛好されるようになりました。家庭でも紅茶は、女主人の手で客にもてなされるようになり、これが英国の習慣とされるようになったのです。18世紀半ばからコーヒーハウスの数は減少し、女性も楽しめるティーハウスに取って代わられました。 一方男性の交流の場はクラブやパブに移って行きました。

英国は1760年代からの産業革命(~1830年)を成功させると、紅茶はすっかり人々の生活の中に定着していき、産業革命と紅茶の普及は足並みを揃えていきました。勿論この背景には英国の植民地経営がありました。(了)  

   
カフヴェハーネ ゴールデン・ライオン
   


   我が家の秋薔薇    中山 宣男

 


師走 二題   牧 虎彦

   
   



私の写真いちおし 「黄金色輝く季節(とき)   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:
2021年11月23日

撮影場所:
東京都皇居外苑

コメント:

東京駅から続く皇居外苑。今は公孫樹の黄葉が輝く季節(とき)です。

この季節を結婚式の前撮りを始め、人々が楽しむ姿を魚眼レンズで捉えました。

   



埼玉の風景; 奥武蔵の紅葉 一ーー泉名政信一ー


奥武蔵・名栗の白雲山には平沼彌太郎(名栗村長・参議院議員・埼玉銀行頭取を歴任)が30年余りかけて開いた鳥居観音があります。梵天と帝釈天を従えた救世大観音(高さ33m)が山頂に屹立し、その少し手前にある玄奘三蔵塔(鉄筋コンクリート造3階建、高さ33m)には三蔵法師の霊骨が祀られています。境内の建造物には多種多様な様式が取り入れられ、玄奘三蔵塔は最上層が16角形の南方様式、第2層は8角形の中国様式、第1層は4角形の日本様式なんだとか。救世大観音も日本寺院様式を基盤としつつ、インド・中近東・ギリシャ様式の装飾が随所に組み込まれています。このように、何とも言われぬ独特な感性が霊場全体に漂う様には、ムムム埼玉!と首を垂れるしかありません。

さてこの日は、玄奘三蔵塔付近の色づきがとても見事であったので一片を切り取って来ました。いや実を言うと、足元が覚束なくなり山頂手前で引き返した結果がこれです。新型コロナ騒動で足腰がすっかり弱ってしまいました

 
 

2021年11月7日撮影@鳥居観音 玄奘三蔵塔(飯能市)

 




茶の話 第3話  ーー吉田洋ーー 

<緑茶と紅茶>

緑茶と紅茶は同じ茶の葉から作られることはご承知の通りですが、緑茶というと落ち着いた雰囲気とまろやかな渋みと甘み、紅茶は華やかな雰囲気と甘い香りというイメージがあるのではと思います。日本語の緑茶、紅茶は抽出した液体の色から、英語のブラックティーは発酵した葉の色に由来しています。

紅茶愛好国英国で緑茶と紅茶の違いが製法の違いにあることを知ったのはアヘン戦争後の1848年のことでした。清国の開国により、内陸への訪問も許可されるようになり、茶の産地への潜入によって初めて秘密のベールが剥がされたのです。紅茶は茶の葉を揉み込んで、葉に含まれる酸化酵素で酸化発酵させたものです。

西欧の茶は日本の緑茶が1609年にオランダに紹介されたことに始まることは第1話で書いた通りですが、中国茶に取って代わられてからも西欧諸国は多様な中国の緑茶を輸入し、緑茶が飲まれていました。当初は高価で、眠気覚ましとして、また万病に効く秘薬として薬店で売られたようです。

英国に茶が持ち込まれたのは1657年のことですが、薬用として飲まれていた茶を嗜好品として流行させたのは1662年チャールズⅡ世にポルトガルから嫁いできたキャサリン王妃でした。英国はライバルのオランダ対抗のためにポルトガルと手を組んだ結果の婚姻でした。王妃は高価な緑茶に、ポルトガルから持参してきた当時贅沢品の砂糖をいれて、茶を楽しむという習慣を宮廷内に広め、英国の貴婦人層にも流行していったのです。

やがて緑茶は紅茶に取って代わられていきます。中国では1650年頃に福建省の武夷地方で烏龍茶などの発酵茶が開発されていました。1679年英国商人がボヘア茶(武夷の茶)という下等な発酵茶を販売したところ評判を得て紅茶につながったといわれています。

英国の硬水では緑茶の旨味、渋味、苦味がバランスよく抽出されにくいのですが、発酵茶は抽出されやすく、苦みや渋みをマイルドにしてくれるのです。また英国の肉中心の食事にも発酵茶が馴染み、砂糖との相性がよいことも評価されたのでしょう。

その後福建省で工夫(カンフ)紅茶と呼ばれる炭焙によって甘い香りを引き出した上質の紅茶が開発されます。英国では1750年頃には紅茶を楽しむアフタヌーン・ティーの習慣が定着し、バラに似た香りがして渋みが砂糖にも合う紅茶が、緑茶より優位になりました。因みにこの時代、茶を運ぶクリッパーと呼ばれる高速帆船の速度競争が過熱し、これがヨットレースの先駆けといわれています。

一方英・東インド会社が1823年インドのアッサム地方で、アッサム種の野生の茶の木を発見したことは第2話で話した通りです。植民地インドでのアッサム茶の栽培は1853年栽培に成功しました。アッサム茶は中国の茶の木よりも高温の地域での栽培に向いている上、葉が大きくて収量も多く、柔らかな香りと風味があり、赤く染まり英国人の好みの紅茶となり、代表的な紅茶としての地位を確立しました。こうして紅茶の生産は拡大し安価となり、英国を中心とする紅茶文化は発展していきました。

因みに世界三大紅茶といわれているのは、中国の祁門紅茶(キーマン)、インドのダージリン、スリランカのウバ(アッサムチャ)の3つの紅茶を指します。ダージリンは中国から導入した茶の木をインドで栽培したものです。(了)  

   
キャサリン王妃  高速帆船 クリッパー
   


   芸術の秋ならぬ芸術の晩秋    中山 宣男

 



霜月 二題   牧 虎彦

   
   



私の写真いちおし 「救いの一条の光   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2018年10月18日

撮影場所:
東京都葛飾区

コメント:

フーテンの寅さんで有名な柴又帝釈天。帝釈堂は法華経説話彫刻
10枚で飾られています。これは三車火宅の図の一部分。法華経では火が迫っているのを知らずに遊ぶ子供が牛車などで救われますが、今日は一条の光により導き救われます。

   


埼玉の風景; コキアのスロープ 一ーー泉名政信一ー

 

2021年10月26日撮影@大宮花の丘農林公苑
(さいたま市・上尾市)

  緩やかな坂道を登り詰めると四阿があって、花畑、ビオトープ、跳ね橋などを見渡せます。敷地の半分ほどを占める花畑にはチューリップ、ネモフィラ、ポピー等が季節に応じて植栽されますが、何といっても7月中旬から10月初旬まで(途中で切込みが行われますが)びっしりと咲き誇るサルビアが見ものです。サルビアの真赤な絨毯越しに見える白い跳ね橋をスケッチ帳に写し取る人をよく見かけます。ふと思い立ってやって来たこの日はサルビアは既に刈り取られ、ビオトープを取り巻くコスモスも見頃を過ぎて残り少ない花が風に揺らめくのみ。替わって赤く色づいたコキアが愛嬌を振り撒いていました。


    



茶の話 第2話  ーー吉田洋ーー 

<アジアの歴史を暗転させたお茶>

1610年に日本からオランダにもたらされた茶(緑茶)はその後西欧諸国に広まっていきました。しかし、明・清(1640~)からの茶の輸出が始まると、日本の茶は安い中国茶に代わられていったのです。

アジア海域には英国とオランダが進出を図っていましたが、1623年両国は東南アジアで衝突します。その結果、英・東インド会社は東南アジア交易から撤退を余儀なくされ、インドへの進出を図ることになりました。

1652年に英国とオランダの間でドーバー海峡の制海権を巡り、第1次英欄戦争が勃発。大型戦艦を駆使した英国海軍はオランダ海軍に対し優勢に戦い、その後の第2次、第3次戦争(~1674)を通じてオランダ経済に大打撃を与え、英国は対清国貿易で優位に立ちました。1669年英国はオランダ本国からの茶の輸入を禁止する法律を制定します。英・東インド会社は茶をバタヴィアで中国商人から買い付けていましたが、1689年に直接清国からの茶の輸入を開始し、1720年には輸入独占権を得るに至りました。その取引の利益が大英帝国繁栄の基礎を築いたといわれています。

清国は輸出港を広州に限定し、茶の売り上げと輸出税で収益を上げる一方、英国は茶の他、陶磁器、絹の輸入により大幅な輸入超過に陥り、清に対してインドで生産したアヘンの輸出を企てたのです。

これより先、1639年にインドに進出した英・東インド会社は綿布を輸入していました。英欄戦争を有利に進めた英国はオランダ勢力を駆逐してインドの植民地化を進め、1757年同じくインド進出を図ったフランスとの抗争にも打ち勝ちインドでの覇権を確立しました。1760年代から始まった産業革命を成し遂げた英国は1800年代には逆に本国から工業製綿織物をインドに輸出するようになり、インドを困窮させることになりました。主要産業を失ったインドに新たに与えられたのが、ケシからのアヘン製造だったのです。清国からのアヘン代はインドを経由して英本国に流れていきました。

アヘンの蔓延に危機感を募らせた清国はアヘンの全面禁輸を断行し、英商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、英国との間でアヘン戦争となったのです。清の敗北の結果、1842年に南京条約が締結され清は開国、香港の割譲を強いられる結果となりました。

浦賀沖に黒船が現れた1853年の10年前のことです。

一方英・東インド会社は1823年インドのアッサム地方を制圧して、後にアッサム種として知られる野生の茶の樹を発見しました。植民地インドでのアッサム茶の栽培は1853年に成功し、清からの茶の輸入を減らす結果となったのです。もっと早くアッサム茶を見つけていたらアヘン戦争は起こらなかったのに!

19世紀に入ってから、英国が植民地のインドやスリランカ(当時はセイロン)でお茶の栽培に成功すると19世紀末迄には中国紅茶をすっかり凌駕しました。セイロン島はオランダ領でしたが、1796年に英国領としたものです。当初はコーヒープランテーションが行なわれましたが、病害が広がりアッサム茶の栽培に切り替えられました。セイロンのアッサム茶を世界的に販売し、有名にしたのがリプトン社です。植民地の住民はプランテーションで茶やコーヒーなどの特定の換金作物を作らされ安く買いたたかれ、逆に生産を制限された主食を高く売りつけられたのです。紅茶は西欧の飲み物のような印象がありますが、元々はアジアの飲み物であり、英国のアジア植民地の拡大と共に広がったのです。(了)  

   
 アヘンの蔓延  アッサム地方
   


  紅葉と那須連山    中山 宣男

 
 


神無月 二題   牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし  「メルヘンの国へご招待   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年9月13日

撮影場所:横浜市 磯子区

コメント何と、街中で、天空にあるメルヘンの国へ繋がる入り口に出くわしました。先ずは、ご覧あれ

 


 

   


茶の話 第1話  ーー吉田洋ーー 

<世界のお茶>

茶は日本には平安初期に唐からもたらされ、それ以降親しまれ、我が国の文化を育んできました。そして茶の文化を世界に発信してきました。「茶の国・日本」といっても過言ではありません。ところで、お茶の一人当たり消費量で日本は世界で何位くらいかご存じでしょうか? 

答えは17位(2000年調査)意外!? では上位は? 1位はアラブ首長国連邦、モロッコ、アイルランド、トルコ、英国と続きます。

アラブ首長国連邦の一人当たり年間消費量はなんと日本の6倍です。上位にはこの他アラブ諸国が目立ちますが、これは気候条件に加え、アルコール禁止の宗教上の理由もあるようです。

緑茶(日本茶)も紅茶も同じ茶の葉から作られることはご存じのとおりですが、上位国はほとんどが紅茶愛好国なのです。国別消費量では1位がインド(紅茶)、2位中国(緑茶)3位ロシア(紅茶)と続きます。世界全体では紅茶・緑茶は3:1で、紅茶優位です。

欧州諸国は概して、コーヒー愛好国が多いのですが、英国の紅茶好きは知られるところです。これは欧州諸国の旧植民地とも絡んでおり、負の歴史の所産ともいえます。

茶の木はツバキ科の常緑樹で、原産地はインド、ベトナム、中国西南部とされ、熱帯から 暖帯のアジアに広く分布しています。花は10-12月初旬頃に咲き、「茶の花」は日本では初冬の季語とされています。日本では野生の山茶も見られますが、すべて帰化植物とされています。

新芽が伸びてくると上部の葉と芽だけを収穫します。時期が遅れると量は増えますが、葉が硬くなり品質も低下します。日本では「夏も近づく八十八夜」、立春から88日目の5月初頭が摘み頃になります。摘んだ後7~15日で新しい葉が生えてきますが、葉がゆっくり成長するほど風味豊かな茶となるといわれています。

茶の木にはチャノキと変種のアッサムチャがあります。チャノキは比較的カテキン含有量が少なく、酸化発酵もしにくく、一般に緑茶向きとされています。アッサムチャはインドのアッサム地方に自生する茶の木で、カテキン含有量が多く、酵素の活性が強く発酵しやすいことから、紅茶向きとされています。

茶の生産量は中国が最も多く全体の43%、次いでインド23%、ケニヤ8%、スリランカ6%、トルコ5%、インドネシア3%となっていて、アジアでの生産が圧倒的です。 

ところで、西欧に最初にお茶がもたらされたのは、実は日本の平戸から、1610年オランダに緑茶が紹介されたことに始まるのです。その後西欧諸国に広がり、さらに米大陸、中東諸国はじめ世界に広がっていったのです。 (了)
茶の花と茶摘みの風景の写真です。



 



 那須高原の夏と相棒居眠りガビ    中山 宣男

 
那須高原の夏

相棒居眠りガビ
 
   

長月 二題   牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 「漁師の休養日   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年8月28日

撮影場所:横浜市 金沢区

コメント:金沢区の柴漁港に猛暑の中を押して撮影に行きました。そこで撮りましたのがこの一枚。柴漁港には獲れたての魚を使った天丼を食べることが出来るお店が金、土、日に開かれます。


 

   


埼玉の風景;宴のあと? 一ーー泉名政信一ー

 

2021年8月28日撮影@さいたま新都心駅改札前(さいたま市)

 

JRさいたま新都心駅の東西をつなぐコンコースが、週末の午後8時とはとても思えないほど閑散としています。アーチにはめ込まれた浮世絵風のポスターは、つい数週間前に隣接するアリーナで行われた東京2020バスケットボール競技の参加国を歓迎して飾られたものとか。変幻自在のフットワークと正確な3ポイントシュートの連発がもたらした女子日本代表の銀メダルは正に快挙でした。が、同時進行の緊急事態宣言下で早くも「宴のあと」となりつつある駅前の光景に接すると、無限迷路に佇んでいるかのようです


    


茶の話 第3話  ーー吉田洋ーー 

<緑茶と紅茶>

緑茶と紅茶は同じ茶の葉から作られることはご承知の通りですが、緑茶というと落ち着いた雰囲気とまろやかな渋みと甘み、紅茶は華やかな雰囲気と甘い香りというイメージがあるのではと思います。日本語の緑茶、紅茶は抽出した液体の色から、英語のブラックティーは発酵した葉の色に由来しています。

紅茶愛好国英国で緑茶と紅茶の違いが製法の違いにあることを知ったのはアヘン戦争後の1848年のことでした。清国の開国により、内陸への訪問も許可されるようになり、茶の産地への潜入によって初めて秘密のベールが剥がされたのです。紅茶は茶の葉を揉み込んで、葉に含まれる酸化酵素で酸化発酵させたものです。

西欧の茶は日本の緑茶が1609年にオランダに紹介されたことに始まることは第1話で書いた通りですが、中国茶に取って代わられてからも西欧諸国は多様な中国の緑茶を輸入し、緑茶が飲まれていました。当初は高価で、眠気覚ましとして、また万病に効く秘薬として薬店で売られたようです。

英国に茶が持ち込まれたのは1657年のことですが、薬用として飲まれていた茶を嗜好品として流行させたのは1662年チャールズⅡ世にポルトガルから嫁いできたキャサリン王妃でした。英国はライバルのオランダ対抗のためにポルトガルと手を組んだ結果の婚姻でした。王妃は高価な緑茶に、ポルトガルから持参してきた当時贅沢品の砂糖をいれて、茶を楽しむという習慣を宮廷内に広め、英国の貴婦人層にも流行していったのです。

やがて緑茶は紅茶に取って代わられていきます。中国では1650年頃に福建省の武夷地方で烏龍茶などの発酵茶が開発されていました。1679年英国商人がボヘア茶(武夷の茶)という下等な発酵茶を販売したところ評判を得て紅茶につながったといわれています。

英国の硬水では緑茶の旨味、渋味、苦味がバランスよく抽出されにくいのですが、発酵茶は抽出されやすく、苦みや渋みをマイルドにしてくれるのです。また英国の肉中心の食事にも発酵茶が馴染み、砂糖との相性がよいことも評価されたのでしょう。

その後福建省で工夫(カンフ)紅茶と呼ばれる炭焙によって甘い香りを引き出した上質の紅茶が開発されます。英国では1750年頃には紅茶を楽しむアフタヌーン・ティーの習慣が定着し、バラに似た香りがして渋みが砂糖にも合う紅茶が、緑茶より優位になりました。因みにこの時代、茶を運ぶクリッパーと呼ばれる高速帆船の速度競争が過熱し、これがヨットレースの先駆けといわれています。

一方英・東インド会社が1823年インドのアッサム地方で、アッサム種の野生の茶の木を発見したことは第2話で話した通りです。植民地インドでのアッサム茶の栽培は1853年栽培に成功しました。アッサム茶は中国の茶の木よりも高温の地域での栽培に向いている上、葉が大きくて収量も多く、柔らかな香りと風味があり、赤く染まり英国人の好みの紅茶となり、代表的な紅茶としての地位を確立しました。こうして紅茶の生産は拡大し安価となり、英国を中心とする紅茶文化は発展していきました。

因みに世界三大紅茶といわれているのは、中国の祁門紅茶(キーマン)、インドのダージリン、スリランカのウバ(アッサムチャ)の3つの紅茶を指します。ダージリンは中国から導入した茶の木をインドで栽培したものです。(了)  

   
キャサリン王妃  高速帆船 クリッパー
   


   芸術の秋ならぬ芸術の晩秋    中山 宣男

 



霜月 二題   牧 虎彦

   
   



私の写真いちおし 「救いの一条の光   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2018年10月18日

撮影場所:
東京都葛飾区

コメント:

フーテンの寅さんで有名な柴又帝釈天。帝釈堂は法華経説話彫刻
10枚で飾られています。これは三車火宅の図の一部分。法華経では火が迫っているのを知らずに遊ぶ子供が牛車などで救われますが、今日は一条の光により導き救われます。

   


埼玉の風景; コキアのスロープ 一ーー泉名政信一ー

 

2021年10月26日撮影@大宮花の丘農林公苑
(さいたま市・上尾市)

  緩やかな坂道を登り詰めると四阿があって、花畑、ビオトープ、跳ね橋などを見渡せます。敷地の半分ほどを占める花畑にはチューリップ、ネモフィラ、ポピー等が季節に応じて植栽されますが、何といっても7月中旬から10月初旬まで(途中で切込みが行われますが)びっしりと咲き誇るサルビアが見ものです。サルビアの真赤な絨毯越しに見える白い跳ね橋をスケッチ帳に写し取る人をよく見かけます。ふと思い立ってやって来たこの日はサルビアは既に刈り取られ、ビオトープを取り巻くコスモスも見頃を過ぎて残り少ない花が風に揺らめくのみ。替わって赤く色づいたコキアが愛嬌を振り撒いていました。


    



茶の話 第2話  ーー吉田洋ーー 

<アジアの歴史を暗転させたお茶>

1610年に日本からオランダにもたらされた茶(緑茶)はその後西欧諸国に広まっていきました。しかし、明・清(1640~)からの茶の輸出が始まると、日本の茶は安い中国茶に代わられていったのです。

アジア海域には英国とオランダが進出を図っていましたが、1623年両国は東南アジアで衝突します。その結果、英・東インド会社は東南アジア交易から撤退を余儀なくされ、インドへの進出を図ることになりました。

1652年に英国とオランダの間でドーバー海峡の制海権を巡り、第1次英欄戦争が勃発。大型戦艦を駆使した英国海軍はオランダ海軍に対し優勢に戦い、その後の第2次、第3次戦争(~1674)を通じてオランダ経済に大打撃を与え、英国は対清国貿易で優位に立ちました。1669年英国はオランダ本国からの茶の輸入を禁止する法律を制定します。英・東インド会社は茶をバタヴィアで中国商人から買い付けていましたが、1689年に直接清国からの茶の輸入を開始し、1720年には輸入独占権を得るに至りました。その取引の利益が大英帝国繁栄の基礎を築いたといわれています。

清国は輸出港を広州に限定し、茶の売り上げと輸出税で収益を上げる一方、英国は茶の他、陶磁器、絹の輸入により大幅な輸入超過に陥り、清に対してインドで生産したアヘンの輸出を企てたのです。

これより先、1639年にインドに進出した英・東インド会社は綿布を輸入していました。英欄戦争を有利に進めた英国はオランダ勢力を駆逐してインドの植民地化を進め、1757年同じくインド進出を図ったフランスとの抗争にも打ち勝ちインドでの覇権を確立しました。1760年代から始まった産業革命を成し遂げた英国は1800年代には逆に本国から工業製綿織物をインドに輸出するようになり、インドを困窮させることになりました。主要産業を失ったインドに新たに与えられたのが、ケシからのアヘン製造だったのです。清国からのアヘン代はインドを経由して英本国に流れていきました。

アヘンの蔓延に危機感を募らせた清国はアヘンの全面禁輸を断行し、英商人の保有するアヘンを没収・焼却したため、英国との間でアヘン戦争となったのです。清の敗北の結果、1842年に南京条約が締結され清は開国、香港の割譲を強いられる結果となりました。

浦賀沖に黒船が現れた1853年の10年前のことです。

一方英・東インド会社は1823年インドのアッサム地方を制圧して、後にアッサム種として知られる野生の茶の樹を発見しました。植民地インドでのアッサム茶の栽培は1853年に成功し、清からの茶の輸入を減らす結果となったのです。もっと早くアッサム茶を見つけていたらアヘン戦争は起こらなかったのに!

19世紀に入ってから、英国が植民地のインドやスリランカ(当時はセイロン)でお茶の栽培に成功すると19世紀末迄には中国紅茶をすっかり凌駕しました。セイロン島はオランダ領でしたが、1796年に英国領としたものです。当初はコーヒープランテーションが行なわれましたが、病害が広がりアッサム茶の栽培に切り替えられました。セイロンのアッサム茶を世界的に販売し、有名にしたのがリプトン社です。植民地の住民はプランテーションで茶やコーヒーなどの特定の換金作物を作らされ安く買いたたかれ、逆に生産を制限された主食を高く売りつけられたのです。紅茶は西欧の飲み物のような印象がありますが、元々はアジアの飲み物であり、英国のアジア植民地の拡大と共に広がったのです。(了)  

   
 アヘンの蔓延  アッサム地方
   


  紅葉と那須連山    中山 宣男

 
 


神無月 二題   牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし  「メルヘンの国へご招待   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年9月13日

撮影場所:横浜市 磯子区

コメント何と、街中で、天空にあるメルヘンの国へ繋がる入り口に出くわしました。先ずは、ご覧あれ

 


 

   


茶の話 第1話  ーー吉田洋ーー 

<世界のお茶>

茶は日本には平安初期に唐からもたらされ、それ以降親しまれ、我が国の文化を育んできました。そして茶の文化を世界に発信してきました。「茶の国・日本」といっても過言ではありません。ところで、お茶の一人当たり消費量で日本は世界で何位くらいかご存じでしょうか? 

答えは17位(2000年調査)意外!? では上位は? 1位はアラブ首長国連邦、モロッコ、アイルランド、トルコ、英国と続きます。

アラブ首長国連邦の一人当たり年間消費量はなんと日本の6倍です。上位にはこの他アラブ諸国が目立ちますが、これは気候条件に加え、アルコール禁止の宗教上の理由もあるようです。

緑茶(日本茶)も紅茶も同じ茶の葉から作られることはご存じのとおりですが、上位国はほとんどが紅茶愛好国なのです。国別消費量では1位がインド(紅茶)、2位中国(緑茶)3位ロシア(紅茶)と続きます。世界全体では紅茶・緑茶は3:1で、紅茶優位です。

欧州諸国は概して、コーヒー愛好国が多いのですが、英国の紅茶好きは知られるところです。これは欧州諸国の旧植民地とも絡んでおり、負の歴史の所産ともいえます。

茶の木はツバキ科の常緑樹で、原産地はインド、ベトナム、中国西南部とされ、熱帯から 暖帯のアジアに広く分布しています。花は10-12月初旬頃に咲き、「茶の花」は日本では初冬の季語とされています。日本では野生の山茶も見られますが、すべて帰化植物とされています。

新芽が伸びてくると上部の葉と芽だけを収穫します。時期が遅れると量は増えますが、葉が硬くなり品質も低下します。日本では「夏も近づく八十八夜」、立春から88日目の5月初頭が摘み頃になります。摘んだ後7~15日で新しい葉が生えてきますが、葉がゆっくり成長するほど風味豊かな茶となるといわれています。

茶の木にはチャノキと変種のアッサムチャがあります。チャノキは比較的カテキン含有量が少なく、酸化発酵もしにくく、一般に緑茶向きとされています。アッサムチャはインドのアッサム地方に自生する茶の木で、カテキン含有量が多く、酵素の活性が強く発酵しやすいことから、紅茶向きとされています。

茶の生産量は中国が最も多く全体の43%、次いでインド23%、ケニヤ8%、スリランカ6%、トルコ5%、インドネシア3%となっていて、アジアでの生産が圧倒的です。 

ところで、西欧に最初にお茶がもたらされたのは、実は日本の平戸から、1610年オランダに緑茶が紹介されたことに始まるのです。その後西欧諸国に広がり、さらに米大陸、中東諸国はじめ世界に広がっていったのです。 (了)
茶の花と茶摘みの風景の写真です。



 



 那須高原の夏と相棒居眠りガビ    中山 宣男

 
那須高原の夏

相棒居眠りガビ
 
   

長月 二題   牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし 漁師の休養日   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年8月28日

撮影場所:横浜市 金沢区

コメント:金沢区の柴漁港に猛暑の中を押して撮影に行きました。そこで撮りましたのがこの一枚。柴漁港には獲れたての魚を使った天丼を食べることが出来るお店が金、土、日に開かれます。


 

   


埼玉の風景;宴のあと? 一ーー泉名政信一ー

 

2021年8月28日撮影@さいたま新都心駅改札前(さいたま市)

 

JRさいたま新都心駅の東西をつなぐコンコースが、週末の午後8時とはとても思えないほど閑散としています。アーチにはめ込まれた浮世絵風のポスターは、つい数週間前に隣接するアリーナで行われた東京2020バスケットボール競技の参加国を歓迎して飾られたものとか。変幻自在のフットワークと正確な3ポイントシュートの連発がもたらした女子日本代表の銀メダルは正に快挙でした。が、同時進行の緊急事態宣言下で早くも「宴のあと」となりつつある駅前の光景に接すると、無限迷路に佇んでいるかのようです


    


Sophie & Marc ー金井文昭ー


孫娘Sophie を小学一年生のMarcがあやしています。
 
なかなか優しくて気の利くお兄ちゃんです。じじバカ評!
   


 愛犬ガビのポートレート(油絵)と薔薇地図   中山 宣男

  愛犬ガビのポートレート(油絵)(左)
 薔薇地図 (下)
   


【新-漢字小景–10】  「色」と「商」(最終回)   ー吉村 正(志田 唯史)

色はアレをあらわすアノ形


 『漢字って、もともと、そういう意味だったのか――漢字のルーツを探る』(角川書店)という本があります。カネカを退職してから十年後、二〇〇一年に上梓した愚作ですが、今回は最終回ということで、有終の美を飾るか、さらなる老醜をさらすか、とにかくこの本の中から「色」「商」という二つの漢字について、ちょっとスケベなその字源を紹介したいと思います。

 いえね、なぜこんな口上を述べるかというと、この本そのものは決していやらしい代物ではなく、漢字の字源について独力で研究した二人の碩学(せきがく)――白川静氏と加藤常賢氏の事績をベースに、字源学をわかりやすく解説したマジメな本なんです。そのことを最初にいっておきたかった。はい、ちゃんといいましたので、さっそくスケベ字源について話を進めましょう。

さて、「色」という漢字がなぜいやらしいのか?


この漢字を分解すると、+「巴」になります。は人の形、「巴」は人が膝をついてかがんだ姿勢。中国最古の体系的漢字辞書『説文解字』は、これを「顔气(がんき)なり。人に従ひ、卩(せつ)に従ふ」と解し(卩は巴が変形した形)、礼儀でひざまずいた人の気持ちが、自然と顔にあらわれた様子だと説明しています。だけどこの解釈を支持する学者は、現在はまったくいません。

 ちなみに、「色」という漢字の原形とされる篆文(てんぶん)(古代文字の一つ)は以下のとおりです。


 

じゃあ、この漢字はどのように解されているのでしょうか? まず加藤常賢氏は、「二人が取っ組んで連続して一つになる意」(『漢字の起原』)とし、白川静氏は「人の後ろから抱いて相交わる形」(『字通』)と解釈しています。何だかとても難しいことをやっているように思えますが、みなさんはどんなことを想像しますか?

 もっとわかりやすい説明を見てみましょう。藤堂明保氏編『学研・漢和大辞典』にある解説です。そこには「かがんだ女性と、かがんでその上に乗った男性とが、からだをすりよせて性交するさまを描いた象形文字」と記してあります。

 ああ、やっぱりそうだったんですね。これ、後背位というヤツでしたっけ。俗にいうワンワンスタイル。それが「色」の原義だったんです。

 

孔子もいっています。「吾、未だ徳を好むこと色を好むが如くなる者を見ざるなり(徳を修めることが、女色より好きだという者を、わしはまだ見たことがないなあ)」(『史記』)と。孟子もまた「好色は人の欲する所」(『孟子』)と正直です。
こうして「色」には、男の「好・欲」の対象として女性の意が含まれ、そこから拡張されて「色」は、容貌を意味するようになったわけです。容色の意はさらに、顔の表情や外にあらわれたようすや形(喜色、血色、景色、春色)、そして色彩(青色、暖色)を意味するようになりました。

 

●「商」をめぐるさまざまな字源説


 最後に「商」を取りあげましょう。

 多くの漢和辞典は、大きくいって二つの説に分かれます。一つは「高い丘説」、もう一つが「女陰説」です。「高い丘説」については先に挙げた小著に詳しく書いていますので、そちらを読んでください(とはいえ、今では古書でしか読めませんが……)。というのも、その内容を開陳しても全然おもしろくないからです。なので、ここでは「女陰説」に絞って書くことにしますね。

 ちなみに、「商」は古代王朝の名前で、一般には「殷(いん)」と呼ばれています。なぜ二つの名前があるかというと、この王朝を倒した「周」が、殷という呼称(蔑称?)を用いたためです。なお、「商」の古代文字は以下のとおり。

 

 さて、この「女陰説」は加藤常賢氏が『漢字の起原』の中で提唱している説です。この説では、「商」を「▽(または辛)+冏」に分解します。声符(漢字の音声をあらわす部分)は「▽(または辛)」で「セツ」、意符(漢字の意味をあらわす部分)は「冏」で、これが女陰の形象になるというわけです。

 つまり、この「冏」をわかりやすく描き直すと、が臀部、つまり桃のように割れたお尻で、そこに「□」(穴ボコ)を加えたこそ、「色」字で紹介したワンワンスタイルをとったときの女性の陰部をあらわす象形となるわけです。

 加藤氏はこの傍証として、字音の「セツ」が「シュツ」(「出」=子どもが出てくる)、「ショウ」(「生」=子どもを生む)に転音したとの見解を示しています。が、むしろ問題は、そんな卑猥な字形である「商」を、この王朝がなぜわざわざ自らの国号にしたのか、ということでしょう。これについて加藤氏は、「詳細な論考を必要とするから省略する」として、自らの参考文献を記すのみ。興味深い説なのにとても残念です。

 ただ、「女陰説」をとる他の人たちは、王朝の始祖の「懐妊神話」や古代人特有の「牝器(ひんき)神崇拝」(日本の土偶にもあります)を「商」と結びつけて論じています。しかし、いくら女陰を崇拝したとしても、それそのものをあらわす「商」を、王朝が自らの国号にするでしょうか。アメリカ・インディアンにコマンチ族っていう部族はいましたが、商王朝の創始者たちが自分たちをお〇〇〇族なんて、大いばりで称するとはちょっと考えられません。

  いや、もちろん、絶対にないとはいえません。現に、中国の安徽(あんき)省阜陽(ふよう)県はその昔、ズバリ女陰県と呼ばれていたくらいですから。でもなあ……。

   ところで、これら「高い丘説」や「女陰説」に、真っ向から対立する異論を差し挟んでいるのが白川静氏です。氏は「商」を「辛++□」と字解します。「辛」は入れ墨用の大きな針器で、はその針器が立てられた台座、「□」は祝祷(しゅくとう)を入れる「(サイ)」という器。つまり、祭祀を執り行うときの祭壇そのものの形が「商」だというわけです。

 というのも、商(殷)の時代は、ある政策を実行すべきかどうかについて、その吉凶をすべて占いによって決めていたからにほかなりません(亀の甲羅に刻まれた甲骨文はその占い文です)。

  したがって「商」とは、「これに祈って、神意を問う意」であり、「その神政的な支配を示す国号であった」(『字統』)と白川氏はいいます。台座の上にある「辛」が刑罰権を示し、台座と「」が祭祀権を示すことによって、「商」は卜占(ぼくせん)の主宰者=政治の支配者であることを高らかに謳った漢字たりうる、というのが白川氏の主張です。

 加藤氏が昭和三十一年に世に問うた「女陰説」には敬服の意を表しますが、小職はさまざまな理由からこれを支持しかねます。与するとすれば、やはり白川氏の「神政的支配説」です。

  以上で、都合二十回も続けてきた「漢字に関する与太話」を終えることにします。長きにわたっておつき合いくださり、ありがとうございました。(了)  



私の写真いちおし  「梅雨が開けた!!   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年7月18日

撮影場所:東京都台東区不忍池

コメント:上野公園の不忍池は蓮の花の名所でもあります。梅雨明けを待って不忍池に蓮の花の撮影に出かけました。そこは梅雨明けを待っていた人々が憩う所。人々がボート池でスワン型ボートを楽しむ姿に惹かれ、本撮影をおこないました。

 

   

私の「フォト五七五」 葉月 二題   牧 虎彦

   
   


埼玉の風景;五千頭の龍一ーー泉名政信一ー

 

2021年7月28日撮影@五千頭の龍が昇る聖天宮(坂戸市)

 

「さかどにはなにもない?」 
2年前に坂戸市が観光資源団体と共同で作成した観光PRポスターには、この逆説的なキャッチコピーが大書してあったという。3種類のポスターが作られ、その一つに「五千頭の龍が昇る聖天宮」が大きく映し出されていたそうです。聖天宮は田畑の中に孤立した異次元空間。周囲と釣り合うことのない豪勢な建物群は、台湾の宮大工によって建てられたため、台湾に来たかと見紛うばかりです。平成七年開廟ですからまだ新しい道教のお宮で、規模は中庸ですが(ただし道教の宮としては国内最大級)、透かし彫りされた5mもある石柱や釘を用いない複雑な組天井など、見どころ満載。圧巻は、重なり合う屋根とその周囲に据えられた夥しい数の「龍」でしょう。神と皇帝の建造物のみに許されるという黄色の瓦が屋根全面を覆い光り輝いています。わざわざ出かける必要があるかどうかは道教への関心次第ですが、国道254号を川越から東松山方面へと向かう時にはちょっと立ち寄って異国情緒にひたるのも良いかもしれません。


    

Sophie with Daddy and Brother ー金井文昭ー

  一月に生まれた孫娘Sophie が小学一年生のMarcとお父さんのAlexayとスイス南部でVacationを楽しんでいます。この写真を撮るには30分並び寝そべっていられる時間は5分です。なんとも平和な風景です。
   


 水彩画 その1  中山 宣男

 愛妻の忘れ形見―亡くなった愛犬ガビ  紫陽花
   
   


埼玉の風景;アナベルの道案内一ーー泉名政信一ー

 

2021年6月20日撮影@騎西あじさいロード(加須市)

 

加須(かぞ;埼玉県の北東部に位置し、群馬・栃木・茨城の3県に隣接)にある騎西総合公園から騎西城跡へ向かう遊歩道では、膝の高さに植栽されたアナベルの隊列が道案内しています。右手前方に見える建物は、天守閣を模して造られた郷土史料展示室(騎西城とも呼ばれる)です。
田畑を横切るこの道と玉敷公園へと続く市道を合わせた総延長1.5kmの行程は「ふじとあじさいの道」と名付けられ、約1万本もの紫陽花が整然と配置されています。
「あじさい祭り」で人力車が登場するイベントも計画されていましたが、新型コロナ感染拡大防止のため祭りは中止されました。残念!


    

【新-漢字小景–9オスとメス(4)   ー吉村 正(志田 唯史)

牡蠣はすべてオス


牡蠣(かき)という漢字、難しいですねえ。異体字の「牡蛎」を使うこともありますし、日本橋の蠣殻町のように、「蠣」の一字だけで「かき」と読む場合もあります。で、問題は「牡」の字。一般に用いる「牡蠣」の表記に、なぜオスをあらわす「牡」という漢字がついているのでしょうか?

 実は、牡蠣はもともとオスだけの貝だと考えられていたからです。というのも、たとえば栄螺(さざえ)の内臓を見ると、白いのがオスで濃い緑色がメスだと容易に区別できますが、牡蠣の場合、内臓とおぼしきものはすべて白。なので「オスしかいない貝」ということで「牡蠣」と書かれるようになりました。

 もちろん、牡蠣はオスとメスに分かれて有性生殖を行いますが、繁殖期が終わる冬場にはみんな中性になってしまうそうです。オカマさんでもオナベさんでもなく、文字どおり雌雄の別がなくなってしまう。

 では、次の繁殖期の雌雄を決める要因は何かというと、前年の栄養の摂取具合ことです。つまり、成長を支える滋養分をたらふく摂取できた牡蠣はメスになり、エサに恵まれなかったほうはオスになってしまいます。そうなんです。オスはいつも哀しい生き物なのです。


 もう一つ、「牡」の字がつく生物に「牡丹(ぼたん)」があります。「丹」は「に」とも読み、花の色のメインとなる赤色(または黄色味を帯びた赤)をあらわしているのは明白でしょう。旧名・藤純子扮する「緋牡丹のお龍」の「緋」も、赤色(濃く明るい赤)の意。では、「牡」があらわすのは何なのか?

 実はよくわからないんです。古来中国では、牡丹は「花の王」として尊ばれていました。だから「王としての雄々しさ」を「牡」の字であらわしたとする説がもっともらしいのですが、一方で牡丹はあでやかな女性の姿にたとえられてきた経緯があります。そう、「立てば芍薬(しゃくやく)、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」のあれです。

 牡丹は大輪の花ゆえ、肉感的で豊満な美女にたとえられることが多いようです。中国でいえば楊貴妃。以前「漢字小景―4」に書いたように、もう一方の絶世の美女・西施(せいし)が、くずおれそうなほどはかなげで、清楚な愁いを帯びた女性だったのに対して、楊貴妃は「温泉 水滑らかにして 凝脂を洗う」(白居易)というタイプでした。そのため、西施の乳房はプリンとした弾力のある河豚(ふぐ)の白子にたとえられ、一方楊貴妃のそれは、ドーンとした存在感のある牡蠣(かき)にたとえられたのでした。



姫路城のシャチホコはすべてメス?

 

突然ですが、「狼狽(ろうばい)」とは、「あわてふためく」「うろたえる」ことだと国語辞典には載っています。これが普通の意味です。一方、唐代に編纂された『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』というヘンテコな本(魯迅(ろじん)や南方熊楠(みなみかたくまぐす)の愛読書)には、「狼狽とは二種類のオオカミの名称で、狼(ろう)は前脚が長くて後ろ脚が短く、狽(ばい)は逆に前脚が短くて後ろ脚の長いため、離れると倒れてしまうので、いつも一緒に助け合って行動している」と書かれています。「だから、うろたえることを狼狽というんだ」と。
そんなオモロイ生き物がいたかどうかはともかく、これを取りあげたのは、別の書に「狼狽」の「狼」は雄のオオカミ、「狽」は雌のオオカミと記されていたからです。二人三脚ならぬ二頭四脚で歩く何とも珍妙なオオカミもどきの紹介より、雌雄の別をあらわす漢字の紹介のほうが、まだしも自然ですよね。


さて、最後はシャチのオスとメスです。といっても、映画『オルカ』に登場する巨大哺乳類の鯱(別名・killer whale)のことではありません。城の天守閣の屋根から天下を睥睨(へいげい)する鯱(しゃち/しゃちほこ)のことです。

 このシャチはもちろん想像上の海獣で、頭は虎に似ており,背に鋭いとげを生やし,常に尾をそらしているとされています。城郭の屋根に据えられたのは、城を火災から守る神として、水を吹き出す姿が造形されたわけです。今年の三月に名古屋城から金のチャチホコが地上に降ろされましたが、実はシャチホコに雌雄があることはあまり知られていません。

 名古屋城の場合は、天守閣の北側がオスで南側がメスだそうです。オスはメスに比べて高さも重さもまさっていますが、ウロコの数はオスが112枚なのに対して、メスは126枚とのこと。メスのウロコは小ぶりなんでしょうね。

 名古屋城のシャチは金メッキではなく、表面に金板を張りつけた構造になっていますが、姫路城のシャチは巨大な瓦製です。ただし、その原形となった貞享四年(1687年)製の鯱瓦がメスのものしか残っていなかったため、姫路城のシャチは二尾ともメスになってしまったとのこと。白鷺城とも称される美しい姫路城が、何となく女性っぽく見えるのは、そのためなんでしょうか。(了) 


私の写真いちおし  「空中散歩で黄昏時を   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年6月18日

撮影場所:横浜市桜木町

コメント:本年4月から、桜木町駅前からロープウエイ「ヨコハマキャビン」が開業致しました。黄昏時を空からお楽しみ頂けます。

 

   

私の「フォト五七五」 文月 二題   牧 虎彦

   
   


埼玉の風景;日本一ーー泉名政信一ー

 2021年5月17日撮影@ポピー・ハッピースクエア(鴻巣市)  

荒川の川幅(両岸の堤防の間隔)は県道東松山鴻巣線の御成橋付近で最大2,537mに達し、川幅「日本一」を誇ります。平時の水流が幅30m程度であることを考えると、堤防の間隔は信じ難い長さですが、その名の通り「荒れる」川がこの地形を作り上げたのでしょう。吉野川の2,380mが第2位ですから荒川の存在感を改めて思い知らされます。
御成橋のたもと(鴻巣市側)は5月中旬になるとポピーで埋め尽されます。河川敷へのゴミの不法投棄防止と「花のまち鴻巣」広報の目的で、125,000平方メートルほどの敷地に約3,000万本が栽培され、その広さはポピー畑で「日本一」だそうです。
この日は薄曇りだったためハイキー気味で露光してみたところ、後方の御成橋を渡るトラックがすっかり霞んでしまいました。

    

【新-漢字小景–8オスとメス(3)   ー吉村 正(志田 唯史)

豹はメスの虎?


前回、虹のオスとメス(虹(こう)と蜺(げい))についてお話し、中国では虹は天空の神龍が水を飲みに降りてきた姿と考えられていたと述べましたが、では龍自体にオスとメスの区別はあるのでしょうか? いくつかの文献にあたりましたが、結論をいうとよくわかりませんでした。

 たしかに、二匹の龍が向かい合っている絵(たとえば日本の襖絵など)はいくつもあり、ある特徴をまことしやかにいい立てて、雌雄を特定したりしていますが、どの論証も納得できるものではありません。また、小形の龍である「蛟(みずち)」をメスとする見方もあります。だけど、蛟は水中に棲む龍のいわば幼形(=蛟龍(こうりょう))で、雲に乗って天上に昇ってはじめて龍になるとする考え方が一般的です。つまり、龍には長幼の区別はあっても、雌雄の区別はないと考えていいでのではないでしょうか。

 さて、龍とくれば虎ですね。今の時代、豹と虎を見誤る人はいないでしょうが、江戸時代、豹は虎のメスだと考えられていました。そりゃ絵師にとって、虎も豹も実際に目にしたことはなく、中国の絵画をもとに想像をたくましくする以外、虎を描く方法などなかったのですから。まあ、動物園ができる明治以前、襖絵などに描かれた虎は、眼光鋭いトラ猫の域を出ていません。

 架空の生き物である河童はどうか。こいつはもともと人間をモデルして造形された動物ですから、オスメスの区別は明確です。おっぱいの有無でこれをあらわすのが一般的ですが、典型的なのは黄桜酒造のキャラクターでしょう。

 初代の河童は清水崑さんの手によるもの。氏が亡くなったあとは小島功さんが河童の絵を引き継ぎました。どちらも乳房は豊満に描かれていますが、清水崑さんの女河童はどちらかというと戯画的で乳首は省略、小島功さんのはかなり色っぽく、乳首もはっきりと描かれています。ま、好みはそれぞれでしょう。

キリンのオスとメス

 雌雄の別をあらわす漢字が比較的はっきりしているのは、「麒麟(きりん)」「鳳凰(ほうおう)」「鴛鴦(えんおう=おしどり)」「翡翠(かわせみ)」です。異論はさまざまありますが、一般的には前の漢字がオスを、後の漢字がメスをあらわしているといわれています。麒麟でいえば「麒」がオスで「麟」がメス、翡翠では「翡」がオスで「翠」がメス、というぐあいです。

 あ、動物園にいるキリンさんではありません。ビールのラベルに描かれている、あの想像上の動物です。鳳凰も同じく想像上の鳥。どちらも中国では、聖人によって王道が行われたときにあらわれる、とされています。 一方、鴛鴦と翡翠はどちらも実在の鳥です。

 オシドリでは、体長が大きくて派手な冠羽を持つのがオス、少し小形で色彩の地味なのがメスです。「おしどり夫婦」との言葉が示すように、オスとメスの仲が睦まじいことの象徴とされ、男女の絆がことに深いことを「鴛鴦(えんおう)の契り」、男女が寄り添って寝る寝床のことを「鴛鴦の衾(ふすま)」といったりします。

 さて、みなさんの「契り」のほどはいかがだったでしょうか? 「オレはまだまだ現役だぞ」とおっしゃる剛の方もいらっしゃるでしょうが、オシドリの夫婦愛なんて実は一年かぎり。何のことはない、毎年お相手を替えるそうです。

 カワセミの場合は、羽の色彩ではなく、くちばしの色で雌雄を見分けます。上下ともに黒いのがオスで、下のくちばしが赤みがかっているのがメスだそうです。ただし、見た目ではほとんど区別がつきません。

 漢字では「翡翠」と書きますが、「翡」は赤い羽、「翠」は青い(または緑色の)羽をあらわしています。実は宝石のヒスイにも同じ漢字をあてます。というか、宝石のヒスイは、カワセミの美しい色合いと光沢から名づけられたものなんです。

 横浜の田舎で筆者が撮影したカワセミの写真を掲示します。拡大したので少しピンボケですが、下のくちばしが赤いので、きっと女の子なんでしょうね。(了)

 


私の写真いちおし  「俺はコロナに負けないぞ   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年5月10日

撮影場所:鎌倉市

コメント:鶴岡八幡の狛犬は新型コロナウイルスに負けないと踏ん張っております。でも、狛犬もマスク無しでは立ち向かえない様です。

   


私の「フォト五七五」 水無月 二題   牧 虎彦

   
   



油絵 「小平周辺 万年橋  」     ー大滝 恒雄 

   

小平周辺

小平駅の近くのところに住宅公園があり、何軒かの古住宅があり、昔の遊び道具があり、竹馬なんかがたのしめます。近くの手打ちうどん店なんかはお勧めです。構図は正面から描いてもつまらないので、縦から横などいろいろ取り組むのが楽しいものです。

   

万年橋

初期の作品で事細かに描いてるのがこの時期のレベル。100年たつ古木で落雷にもめげずたくましく毎年葉を茂らせています。今描いたらどんな作品になるのかたのしみです。

   

趣味のバイブル   ー吉田 洋一

「バイブル」といっても、聖書や経典でもなく、名著でもない。趣味で座右において良く

利用し、楽しんでいる本のことだ。


第1は牧野富太郎博士の「牧野新日本植物図鑑」だ。植物ウォッチングは農作業を別として第一の趣味だが、ウォッチングから帰ってくると、まずこの図鑑を開くことになる。15
00頁ほどの大判の図鑑で、5000を超える植物が収録されている。植物図鑑はハンディなものや、種類別のもの、植物園のものなど数十冊も手許にあるが、単色挿画のこの図鑑にこの15年ほど一番お世話になっている。


次は日本国宝の図録「国宝の旅」だ。講談社2001年発刊で、友人から贈ってもらったものだ。当時の国宝全1059件が収録、解説されている。現在は1100件が指定されている
が、この改訂版は発刊されていない。国宝の集中する関西地方、首都圏の国宝は大方観て回っているが、地方や非公開でまだ出会っていない国宝を、この図録でマークし、美術館の特別展巡りや国内旅行の参考にしている。

最後に秘蔵?の画集を紹介しよう。好みの画家ジョルジュ・ルオーの画集で、一冊は1953年ルオー展記念出版の読売新聞社刊の図鑑。光村印刷の原色版印刷が原画の質感を再現した秀逸な画集で梅田の古書店で新米社員の頃、1万円近くをはたいて購入した。もう一冊はニューヨークの古書店で見つけた美術雑誌社XXeのリトグラフ入りの画集。時折とり出してはルオーを楽しんでいる
 

 


埼玉の風景;風土記の丘ーー泉名政信一ー

 
2021年3月31日@さきたま古墳公園(行田市)
 

この小高い丘は人の手で造られたもの。さきたま古墳公園にある九基の古墳の一つ、丸墓山古墳です。ふっくらと盛り上がった容姿と頂の桜が見事に呼応しています。6世紀前半に築かれた墳丘は直径105m・高さ19mあり、円墳として国内最大級とのこと。これに隣接する稲荷山古墳(前方後円墳、全長120m)では1968年の発掘調査で鉄剣が出土し、後年の保存処理中に115文字の銘文が発見されて話題になりました。5世紀後半の政治情勢を推し量る上で貴重な物証でもある剣は国宝に指定されています。
県名発祥の地埼玉(さいたま)県行田市大字
埼玉(さきたま)にあるこの公園には 全長100mを超える古墳5基が集積していることから、この一帯が古代武蔵国における特別な地域であったに違いありません。

    


私の写真いちおし  「新型花咲爺横浜へ   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年4月7日

撮影場所:横浜市 山下公園

コメント:新型の花咲爺が横浜に来て活動を始めました。昔の花咲爺は枯れ木、まあ言うなれば枯れ枝を咲かせますが、新型の花咲爺は枯れ枝ではなく枯れた幹に花を咲かせました。ごらんあれ!

   


私の「フォト五七五」 皐月 二題   牧 虎彦

   
   


天城峠 浄蓮の滝 ー金井文昭ー

 

撮影月日:2021年4月12日

撮影場所:天城峠 浄蓮の滝

コメント:相変わらず伊豆を駆け巡っています。石川さゆりの歌で有名な浄蓮の滝を訪ねました。新緑に囲まれてさわやかな雰囲気、滝の音も迫力あり、動画で音も楽しんでください。

https://youtu.be/oXo5OzJboL8

   


埼玉の風景;桜ーー泉名政信一ー

 

日本列島そこかしこに桜の名所があります。以前はお花見ツアーによく出かけたものですが、予約した日が天候に恵まれなかったり、開花が例年より早くピークを過ぎてしまっていたりなど、外れ籤を引くことがままあったため、最近は 近隣の見どころを巡るようにしています。Covid-19が収束しそうにない今日、人混み・会食を避ける上でも都合がよい。
 地元 大宮公園は約1,000本の桜が群れを成して空を覆う様が圧巻ですが、飲食禁止であっても多くの人出が予想されたので、雑踏から距離を置いた地元民の憩いの場に狙いを定めての花見となりました。例えば、安行桜が1.2kmに亘って列をなす北浅羽桜堤(平成12年度整備)。育ち盛りの木々が薄いピンクの花をたっぷり纏い、家族連れが幼児や愛犬の写真撮影に勤しむ姿もよく見かけます。名が知られるようになり、アットホームな雰囲気が壊れないか少々心配。また、自宅から徒歩圏内の大宮第二公園も観光客がほとんど無く気が休まります。芝川や調整池の周辺にゆったりと植栽された200本の桜はいずれも見応え十分。ところが残念なことに、西南角に佇む古参の桜がどうも元気ありません。手入れが上手くいかないのか 花数少なく勢いなし。そこで最盛期の写真を取り出し、往年の雄姿の早期復活を祈ることと致しました。

 

2021年3月16日撮影@北浅羽桜堤公園(坂戸市)

2018年3月30日撮影@大宮第二公園(さいたま市) 
   


【新-漢字小景–7オスとメス(2)   ー吉村 正(志田 唯史)

クジラはどちらもゲイである


 ちょっとエロっぽい話題が続いたので、少しまじめ方向に戻しますね。とはいっても、テーマは漢字におけるオスとメスです。懲りません。

ではまず、クジラのオスとメス。と書いたら、「どうせ鯨はゲイだっていいたいんだろう。意図が見え見えだぞ」との言葉が返ってきそうです。はい、スミマセン。普段の行いがよくないから、そう思われますよねえ。
 で、結論からいうと、クジラのオスが「鯨(げい)」でメスが「鯢(げい)」です。日本語の発音ではどちらも「げい」ですが、あらかじめ申し上げたように「gay」ではありません。中国最古の体系的漢字字典『説文解字』では、「鯨」を「海の大魚なり」として※1の古字(篆〔てん〕書体の文字)の

 ※1
 


をあて、「鯢」のほうは「剌魚(らつぎょ)なり」と解説しています。 

「剌魚」とは「山椒魚」のことですが、白川静氏の『字通』には、「(中国の古典に)悪逆の巨魁(きょかい)を鯨鯢(げいげい)にたとえる語があり、雌鯨をいう」と解説されています。つまり、巨悪の大ボスを巨体のクジラにたとえて鯨鯢といったが、鯢とはそのメスをあらわす漢字である、と。なお、鯨鯢は古くは「けいげい」と発音し、先の古字「※1は、「鯨(けい)」の同音・異体字だったわけです。

ちなみに、山椒魚をあらわす「鯢」は、岡山県真庭市にある神社にその名をとどめています。この地は湯原温泉として有名で、神社の名は「鯢大明神」。この鯢は「はんざき」と読みます。「はんざき」とは「半割き」の意で、オオサンショウウオは体を半分に割かれても活きている、との言い伝えから生まれた言葉です。この神社の近くには、「湯原オオサンショウウオ保護センター(別名・はんざきセンター)があります。

 なお、クジラの生物学的な雌雄はとても判別が難しいとのこと。詳しく知りたい方は「くじら博物館/デジタルミュージアム」のHP

https://kujira-digital-museum.com/ja

にある「オスとメスのみわけかた」をご覧ください。図入りでとても詳しく解説されています(笑)。


空の虹にもオスとメスの別があった


 「ゲイ」ついでに、「蜺(げい)」についても紹介しておきましょう。

 「蜺」は「霓」とも書きますが、実はこれ、虹のメスをあらわす漢字(異体字)なんです。オスの「虹」は「こう」と読むので、二つ合わせて「虹蜺(こうげい)」(または「虹霓(こうげい)」)ともいいます。

 でもなぜ「虹」は「虫偏」なんでしょうか? それは昔の中国で、ニジは龍または大蛇の一種と見なされていたからです。『韓非子』にある「逆鱗」の故事を説明したくだりに「それ、龍の虫たるや」という言葉があるように、龍も虫だったんですね(話しを簡単にするために、「蟲」と「虫」の説明は省略)。

 ただし、「虫」といっても、現在でいう昆虫のことではなく、動物の総称です。だから、龍や蛇のようにウロコのある動物は「鱗虫」で、羽の生えた鳥は「羽虫」、毛に覆われたケモノは「毛虫」といい、ウロコも羽も毛もない人間は「裸虫」に分類されていました。現在の分類学ではありませんよ。

 で、オスの「虹」の旁(つくり) にあたる「工」は、もともと下図(※2 )

※2


のような上下に連なる二つの渦巻きの形に描かれていました。この渦巻きは「神」の偏(=申)や「雷」の脚(=田)に記された字形と同様、恐ろしい神威の象徴であり、メスの「蜺(霓)」も龍の頭部を漢字にあらわしたものです。

  つまり古代中国では、ニジは天空にいる神龍が姿をあらわしたもので、その龍は水を飲むために天から降りてくると考えられていました。だけど、この神龍、天の恵みの水をがぶ飲みするため、こいつがあらわれると干魃などの凶事が起こるとして、昔の中国では虹を歓迎しません。「ほら、あの虹の向こうには希望があるんだよ」なんて、のんきなことは思わなかったわけです。

 なお、陰陽の別でいえば、色鮮やかなニジがオスで陽をあらわし、暗い色ほうがメスで陰をあらわしています。「ふん、ニジにオスとメスがあるなんて、古代の迷信を引きずっているんだろう」と笑われそうですが、でもこれ、実は気象学でいう「主虹」と「副虹」に対応しているんです。

 虹には、はっきり見える主虹と、その外側にうっすらと見える副虹とがあるそうです。主虹は外側が赤で内側が紫になっているのに対し、副虹は外側が紫で内側が赤となっており、色の順序がちょうど逆になっているとのこと。といわれても、老眼の進んだ当方の目に、その区別はつきません。 



私の写真いちおし  「春の息吹   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年3月15日

撮影場所:横浜 横浜港

コメント:今年は1月の大雪が有ったものの暖かい日が続き花も早く咲いております。横浜港で三色花桃を飛鳥Ⅱを点描として撮りました。

   


油絵 「女性シリーズ4 」     ー大滝 恒雄 

  これは俳句の「山元志津香先生」の絵である。過日亡くなられた有馬朗人氏の弟子で結社「八千草」の主宰。代表作は「ピアノのちり」。その中の「池袋俳句教室」に女房が通っている。私は投句のみで参加しているが、夫婦で俳句をやってるのは珍しい、と言われ、20年続けている。投句の中の天,地、人の評価を受けた句を「鐘華」に出している。 
この絵は鉛筆、水彩、油彩と仕上げたもの。それにサッカーの沢選手との漫画も描いてみた。
   
   
   



私の「フォト五七五」 卯月 二題   牧 虎彦

   
   


伊東の春 ー金井文昭ー

 伊豆は川津桜等の早咲きの桜の季節が終わり、ソメイヨシノが満開となりました。左の写真は松川沿いの桜で右の写真は住んでいるアパートの裏にある幼稚園の景色です。一歩家をでると桜が咲いていてとても気持ちいいです。この幼稚園の林にはリスのカップルが住んでいて毎日遊んでいるのが見えます。近くの森では鶯も泣き始めました。伊東市城ケ崎海岸駅で鶯の鳴き声を
収めました。YOU TUBEにアップしたので下記URLで聞いて見て下さい。

https://youtu.be/Ay4cpbHRDZ4

   
   



埼玉の風景;無重力ーー泉名政信一ー

見てください、飛び上がると同時にしっかりと膝を折り畳んだ完璧なフォーム! 思わず高速連写してしまいました。
この公園には 程よい大きさの「ふわふわドーム」が設置されていて、子供たち10数人が思い思いにジャンプを楽しんでいました。5歳になったばかりの孫娘は数回感触を確かめると本格的に跳躍を開始。爺じも恐る恐る端の方に乗ってみましたが、フニャフニャする足元に真っ直ぐ立つことさえ覚つかず、早々に退散。何にでも興味を持ち、ともかくやってみる、そしてマスターする、子供たちのチャレンジ精神は、いやぁ感動ものです。人類はこうやって進化してきたのでしょうか。


2021年1月5日撮影 @北本市子供公園(埼玉県)

 

 
 


【新-漢字小景–6オスとメス   ー吉村 正(志田 唯史)

「雌雄」は鳥のメスとオス


今回は、動物のオスとメスをあらわす漢字について書いてみます。これには二つのペア漢字あり、一つは「雌雄(しゆう)」、もう一つは「牝牡(ひんぼ)」です。

 「雌雄」って言葉はご存じですよね。そう、争って勝ち負けをはっきりさせることを「雌雄を決する」といいます。『史記』では、楚の項羽が漢の劉邦に対して、「戦(いくさ)に挑んで雌雄を決せん」と叫び、『三国志演義』でも、袁紹が曹操軍に対して「一決雌雄」(一気に勝負をつけてやる)と誓う場面などが有名です。もちろん、戦いに勝ったほうが「雄(男)」として認められ、負けたほうは評価されません。

 「雄飛」と「雌伏」という対語も同様です。雄飛は雄々しく羽ばたくこと、雌伏は自分が活躍できる機会をじっと待つこと。前者が能動で後者が受動。つまり、「雄」が「勝った・優れた・強い・高い」をあらわし、「雌」が「負けた・劣った・弱い・低い」をあらわしています。

 そう、前回もいったように、明らかな男女差別が「雌雄」という漢字にはあるわけです。中間(というか、ダイバーシティ)は認められていません。ま、これ以上言及するとIOCの規約に抵触しそうなので、これくらいにしておきましょう。

 ところで、雌雄という漢字にはどちらにも「隹」という部首がありますね。これは「ふるとり」といって「鳥」を意味する記号で、「雀・隼・雁」などにも含まれています。「集」も、もともとは木にたくさんの鳥がとまっている様子をあらわした漢字なんです。

 世界最古の体系的漢字字典である『説文解字』では、「雄」を「鳥父なり」、「雌」を「鳥母なり」と説明していますが、要は鳥の意味を借りて男女の優劣をあらわしているわけです。古代漢字の権威・白川静氏によれば、「雄」の偏(へん)は「右」という漢字が変化したものだろう(なので、あまり意味がない)とのこと。一方「雌」の偏は「止+匕」で、「止」は形声字(音をあらわす漢字)だが、「匕」は「牝」の旁(つくり)と同様、メスをあらわす記号であるとのことです。

 うーん、ちょっと物足りない説明ですねえ。では、「牝牡」のペア漢字の意味合いについて、少し深めに探ってみることにしましょう。


ボキシリツとは何か? 


「牝牡」という漢字には「牛偏」がついていることから、鳥ではなく動物のメスとオスをあらわしていることは容易に想像できます。競馬好きの方なら「牝馬(ひんば)レース」という言葉から、牝(ひん)の読み方はよくご存じのことでしょう。けれど、「牡馬」の音読みを知っている方は少ないのではないでしょうか。

 「牝馬」に対するのは「牡馬(ぼば)」です。牡馬という漢字には、ほかに「おうま、おすうま、おま」、牝馬には「めうま、めすうま、めば」の読みがあります。で、牡馬が読めないのは、JRAのレースに、桜花賞などの牝馬レースや牝牡混合のレース(牝馬にも出走が許されているレース)があるに対し、牡馬だけしか出走できない限定レースがないからでしょう。

さて、本題に戻りましょう。まずは「牝牡」の「牡」の字。偏の「牛」が集合的に獣をあらわすのは先に述べたとおりですが、さて、旁にある「土」は何でしょうか? 古代漢字の権威・加藤常賢氏は「牡器■[亻+事]立(ぼきしりつ)の形である」と解字しています。はい、わかりやすくいえば「ちんぽこがおっ立った形」ということです(下図①参照)。

 では「牝」は? 白川氏はメスの記号との解釈でしたが、加藤氏の『漢字の起原』に「牝」は採録されていません。でもご安心ください。漢字の権威には藤堂明保氏もいます。この人(東大教授)、白川静氏を中学の教員上がりだということでバカにしたことがあり、当方は嫌いな男なんですが、まあそれはともかく、氏は「牡」の漢字を「おすがめすの陰門をおかすことに着目したことば」(学研-漢字大辞典)と、えらく具体的に解字しています。

 で、「牝」はというと、「女性の性器が左右両壁がくっついて並んださまをしていることから出たことば」と、これまた極めて具体的に、しかも図入りで解字しています(下図②参照)。なるほど。ただし小職は、「壁」は「襞(ひだ)」の誤植ではないかと疑っているのですが、みなさんはいかがでしょうか。(了)


 

 


私の写真いちおし  「希望(HOPE)   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年2月16日

撮影場所:横浜 横浜港

コメント:横浜港に停泊中の飛鳥Ⅱは客室照明で”HOPE”(希望)の文字を浮かび上がらせています。新型コロナウイルスを克服する日は必ずや来ます。希望を持って暮らしましょう

   


油絵 「天上の里 」     ー大滝 恒雄 

 

 




これは写真からイメージをふくらましたもので、小生は行ったことはない。土佐の山奥で海抜20000メートルでとれるお米は「天上の米」と名付けられて美味しいそうだ。













   



私の「フォト五七五」 弥生 二題   牧 虎彦

   
   


富士山と桜を求めて伊豆サイクリング ー金井文昭ー

 伊東の生活を始めてそろそろ1年経ちます。富士山と桜を求めて晴れた日には最近購入した電動アシスト付き自転車で伊東市を飛び回っています。今年は富士山は雪が少なくてなかなか雪化粧しなかったのですが、2月になりようやく綺麗になり早速出かけて伊東の林道からシャッターを切りました。伊東は早咲き桜も満開で、川津桜、熱海桜、小室山桜と色々種類があり、まさに今、春爛漫です。写真は伊豆高原駅付近の川津桜です。2月23日伊東の町から30km位でアップダウンの道を2時間程海岸の景色を楽しみながら伊豆高原につきました。伊豆急行はサイクルトレインがあり、自転車も乗れ、帰りは電車のつもりでしたが、首都圏の緊急事態宣言のせいかこの日は乗ることができず、帰りも2時間掛けて往復4時間の自転車、最後の上り坂で電池切れで、きつかったです!!
   
   



埼玉の風景;寒紅梅ーー泉名政信一ー

徒歩圏内の梅林の入口には詠み人知らずの和歌「梅の枝にやって来た鶯が春に思いをかけて鳴いているが今だ雪が降っているよ」を刻んだ石碑が建っていて、猫の額ほどの敷地に40品種500本余りの梅が植栽されています。年末には八重寒紅が開花し、年が明けた今、大盃、鹿児島紅、八重冬至なども咲き始めています。紅梅、白梅、枝垂れの開花リレーによる香りの饗宴は2月半ばからがピークですが、真っ先に開いた若い花は実に妖艶!冬の陽光に雄蕊まで光って見えたので、ひと月早い梅便りをお届けすることにしました。

(例年2月下旬に行われる梅まつりは、緊急事態宣言によって中止となりました。)

   

2021年1月16日撮影@大宮第二公園(さいたま市)




【新-漢字小景–5しつこく「男」と「女」   ー吉村 正(志田 唯史)

歌舞伎の演題や地名にも残る「嫐」の漢字


前回、「嬲(ジョウ・ニュウ)」「嫐(ドウ・ノウ)」というヘンテコな漢字を紹介しましたが、中国では、女が二人の男に挟まれていようが、男が二人の女に挟まれていようが、どちらも「なぶる、いたぶる、(うるさい)」という意味です。男女がそれぞれ、どういう位置関係にあるのか、なんてことは問いません。一方日本では、「嬲(男+女+男)」は文字どおり、(複数の)男が女をなぶり者にしたり、もてあそんだりする様子をあらわしていますが、「嫐」(女+男+女)のほうには別の意味が附与されました。

 いや、ご想像されるような、いやらしい意味ではありません(と、機先を制す)。一人の男をめぐって繰り広げられる、女どうしの争い。つまり、ねたみそねみのたぐいです。

 実は、「嫐」という漢字には「うわなり」という訓があります。これは、初代市川團十郎が演じた(元禄時代の)歌舞伎の演題ともなりました。男とその妾に対して、本妻(の怨霊)が激しく嫉妬するという内容です。ことわざに「女の一念岩をも通す」というのがありますが、燃え盛る嫉妬の炎(ほむら)は怖いですねえ。『源氏物語』の昔から、女は生き霊や怨霊として出てくるのですから。

ちなみに、男の場合にも同様のことわざがあります。「男の一念寝間に糞(くそ)たれる」。男の「ようし、オレはやるぞぉ」なんて、その程度のもんですわ。なお、「うわなり」という漢字には、「嫐」のほかに「後妻」があてられます。

 「嫐」に関してもう一つ。熊本県宇城(うき)市には「嫐」のつく地名があるんです。「嫐迫」と書いて「わなんざこ」と読みますが、これは「うわなり-さか(坂)」→「わなり-さこ」が変化したものと思われます。で、この地名にはちゃんとそれらしい由来が残っています。

 そこにはやはり、一人の男と二人の女の存在が……。さてそて、この地にあった一軒家の息子が嫁を迎えたのですが、その嫁に反対する親族がもう一人の女を、何と祝言の日に招き入れたのです。そのため膳はひっくり返るわ、皿は飛び交うわの大騒動に。そりゃ、そうなりますよ。で、この地を「わなんざこ」と呼ぶようになったとのことです(ほんまかいな)。  

 

「姦」はセクハラ漢字 


さて、「女」を三つ重ね合わせた漢字に「姦(カン)」があるのはご存じですよね。姦淫や姦通、強姦や和姦などの熟語が示すように、男女が通じ合ったり、男が女を犯すという意味で使われます。一方、訓では「よこしま」「みだら」。これらは邪悪さや悪賢さなどをあらわす言葉で、熟語では姦計(悪だくみ)や姦智(悪知恵)などとしてとして使われます。

 後者の「姦」は、「女×3」の字形(品字様といいます)によって、女性の道理のなさや浅はかさを言挙(ことあ)げる、いわばセクハラ漢字といえるでしょう。でもね、現在の倫理観や価値観で言葉や漢字を読み解くと、間違った解釈をすることがあるので、お互い注意いたしましょう。

 なお、「姦(かしま)しい」は複数の女がやかましくしゃべるという意味ですが、これは国訓(日本独特の意味合い)で、中国語の「姦」にそのような意味はありません。

中国最古の系統的漢字字典である『説文解字』には、「姦」のほかに「女」を二つ並べた漢字(理義字といいます)が掲載されています。これは「ダン」と読み、意味は「訟」。つまり「二人の女が言い争っている様子」をあらわしているとのことです(※1)。

 最後にもう一つ、ヘンテコ漢字を紹介しておきますね。「姦(カン)」と同じように、「男」をピラミッド形に三つ積み上げた漢字ですが、かの有名な名犬「リンチンチン」とは関係ありません。というか、この漢字は国字(日本で作られた漢字)なので音読みはなく、「たばかる」と訓じます。意味は「(策をめぐらして)だます」こと。あるいは「いろいろ工夫を凝らす」こと。一般的には「謀る」という漢字を使います。(※2)

 いずれも一般の漢和辞典には掲載されていないので、そのカタチだけを以下に写し取っておきますね。(了)




私の写真いちおし  「観音様とご一緒に   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2021年1月25日

撮影場所:
東京都世田谷区 豪徳寺

コメント:豪徳寺は招き猫発祥の寺とされています。招き猫が観音様と一緒になって皆様に幸せを招いてくれます。

   


油絵 「庄内田 」     ー大滝 恒雄 

 

 これは大学の友人3人と私の出身地を訪ねて、田んぼの絵を描こうというので、描いたもの。当地で山に登ったり、レンタカーで駆け巡り、羽黒山の櫛引村で見つけたもの。近くには藤沢昌平や横綱の柏戸の誕生の地が近くにある。黒川能の王祇会館もすぐそばにある。日美展に出品したところ、図らずも「優秀賞」を頂戴した。宿泊は近くの(鶴岡駅から車で30分)湯田川に1泊。ここの女将は「艶姫―庄内米」の宣伝ガール?で夫婦で4時起きして料理を作ってくれ、ゴマ豆腐,盲そう汁,口細かれいなどは絶品である
















   



私の「フォト五七五」 如月 二題   牧 虎彦

   
   


埼玉の風景;飯能の禅寺ーー泉名政信一ー

身の丈の倍近くありそうな大ぶりの石灯篭が参道の両側に並んでいます。覆いかぶさるモミジの枝葉を通してこぼれ落ちる光のグラデーションに包まれると、まるで湖東の寺社に踏み込んだかのような感を覚えます。また、本堂脇には実に見事なカエデの大木がデンと構えています。深紅の葉をたっぷり纏った枝々が弧を描いて垂れ下がる様はなんとも圧巻、この寺最大のアッピール・ポイントです。が、残念ながら、その見事な造形を私の腕で写し撮ることが出来ませんでした。ご興味ある方は、来シーズン是非とも現地へ! 平日であれば“密”になることも無さそうです。  




20201119日撮影@能仁寺参道(飯能市)



【新-漢字小景–4ふたたび「男」と「女」   ー吉村 正(志田 唯史)

●「女偏に男」と書いて何と読みますか?


五十男が若い女の足の指をなめまわす。という場面で有名な映画、ご覧になったことありますか? いや、エロ映画ではありません。五十男に扮するのは豊川悦司、役柄は大学教授です。なめられちゃうのは榮倉奈々。といっても、おじさんやじいさん世代にはちょっとわからないかもしれませんね。うーんと、映画でいえば『図書館戦争』の図書館を防衛する特殊部隊隊員とか、『64-ロクヨン』の広報室担当官といったら、顔を思い出してもらえるでしょうか? この映画では、失恋の痛みを癒し、自分の人生を見つめ直すために、祖母が住んでいた田舎の一軒家で一人暮らしを始めた元OLという設定です。

 二人の関係はややこしいので割愛しますが、当初毛嫌いしていた豊川悦司から、「練習やと思うて、僕と恋愛してみなさい」と京都弁でいわれて、最後には心を許してしまうという、まあ、ひとことでいえばそういうお話しです。「ふん、オレだって五十のころは」っていう方もいらっしゃるでしょうが、それはさておき、お訊きしたいのはこの映画の題名、『娚の一生』っていうんですけど、これ、読めますか、という漢字の話なんです。あ、「甥(おい)」ではありませんよ。「女+男」をつなぎ合わせた漢字の読みです。

 実はこの映画には原作があり、西炯子(けいこ)という人の漫画で、彼女は「娚」を「おとこ」と読ませています。「一人の男と一人の女の物語」であると。でも、「娚」にはそんな読みはありません。

 「娚」は音読みで「ダン・ナン」、訓読みで「めおと」。たしかに「めおと(→みょうと)」という漢字には、「妻木・女夫・夫婦」などを当てます。二個一組の茶碗は「めおと茶碗」、二本寄り添うように生えた松は「めおと松」。実際、石川県金沢市には「娚杉(めおとすぎ)」という町名がちゃんとあるんです。

 なお、「娚」には「ぺちゃくちゃとつまらないことをしゃべり続ける」という意味もあります。これは「喋々喃々(ちょうちょうなんなん)」と同じ意味合いで、「娚(ナン)」は「喃(ナン)」の異体字だろうということがわかります。つまり「娚」は、「男と女が仲睦まじくささやき合う」との意を写し取った漢字だといえるでしょう。(なお、『娚の一生』はアマゾン・プライムビデオでも鑑賞できます) 

 

男に挟まれた女の憐れ

さて、「娚」とくれば、お次は「嬲」と「嫐」でしょう。ちょっと文字が見づらいですね。はい、老眼鏡をかけてください。「嬲」は男二人のあいだに女が一人、「嫐」は女二人のあいだに男が一人いる様をあらわす漢字です。「娚」は「男女が仲よくささやき合う」だけでしたが、あとの二つはすこぶる淫靡。なんとも肉感的ないやらしさが漢字からにじみ出ていますね。

 「嬲」は三国時代につくられた漢字で、「嫐」もそのあとにやはり中国で造形されました。「嬲」の音は「ジョウ・ニュウ」、「嫐」は「ドウ・ノウ」、訓はそれぞれいくつかありますが、共通するのは「なぶる」「うるさい」という意味合いです。

 ただし、『日本国語大辞典』(『日国』=日本最大の国語辞典)で見出し語となっているのは「嬲」だけで、意味としては「①人をいじめておもちゃにする。相手の困惑を楽しんで思うままにする。②手でもてあそぶ。いじりまわす。いじくる。」が挙げられています。漢字の字形からして、もちろん男が女を、ということです。

 まあ、最近では「いじめる、もてあそぶ」の主語が女がある場合も、少なからずあるようですね。その場合は「嫐」という漢字で表現すればいいのでしょうが、中国の文献には「嫐」の使用例はあっても、日本にはありません。なので『日国』に「嫐」の立項がないわけです。

 さて、『日国』が挙げている「嬲」の用例は、平安時代の『日本霊異記』にある以下のくだりです。

 ……、嬢(をんな)猶(なほ)否(いな)と辞(いな)ぶ。壮(をとこ)強(しひて)入り嬲(なぶる)。すなはち心に聴許(ゆる)し、壮と交はる。

(ガキのころから寺や坊さんが嫌いな男がいました。妻は夫となったその男の不信心を詫びるために寺に行き、願掛けをして帰ってきました。男はそんなこと知ったことかと妻を抱こうとします。妻は身を清らかにしておかねばならないのでこれを拒絶しますが、男は嫌がる妻を無理やり犯してしまいました)

 で、どうなったか。事が終わって寝入った男に数百匹の蟻が群がってきて、男のチンポコに噛みついたのです。あまりに痛さに男は悲鳴を上げて転げ回りました。でも、蟻はチンポコから離れません。男はその傷がもとでとうとう死んでしまいましたとさ。というように、『日本霊異記』は仏教思想に基づいて、こうした因果応報を書き記した説話集なんです。

 ただし、世の男よ、妻や女性を嬲(なぶ)ったら、とんでもない目に遭いますよ、という戒めというよりも、信仰のなさがもたらす厄災に重きが置かれています。とはいえ、「なぶる」という男主体の行為自体は、当然この漢字が輸入される前からあったんでしょうね。
男って、罪深い生き物ですから。(了)
 

 


私の写真いちおし  「わーい、ママと一緒!   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年12月16日

撮影場所:川崎市

コメント:川崎市役所が建て替え工事中。工事現場の囲いには壁画が描かれています。本写真はその前での一場面。

 
   


油絵 「女性シリーズ 3 」     ー大滝 恒雄 

 

 

「孤児院の読書する少女」

ニコライ、ファンデルヴァークの作品。名前は知らないが、察するに、ドイツ当たりの画家ではないだろうか。あまりにも楚々とした肢体にひかれて模写した次第。義弟が気に入って貰っていき、うちはない。自然と筆使いがソフトになるから不思議だ。

















   


私の「フォト五七五」 睦月 二題   牧 虎彦

   
   


私のフォト575 季節の短信2021-1  ーー藤井 正克一ー

   
   

2020年


2020/12/1  私の写真いちおし 
「ウイズコロナの秋
その3   
山下 勝治   
2020/12/1   油絵「女性シリーズ2 若い女性」   大滝 恒雄   
 2020/12/1 私の「フォト五七五」 
師走 二題
 
牧 虎彦   
 2020/12/1   さいたまの風景;黄葉 泉名政信    
2020/12/1    伊東富士見台散策コース 金井 文昭    
2020/11/1  私の「フォト五七五」 
霜月 二題
   
牧 虎彦   
 2020/11/1  油絵「女性シリーズ1」 大滝 恒雄   
 2020/11/1  私のフォト575 
季節の短信2020年 その5
 
藤井 正克   
 2020/11/1   私の写真いちおし 
ウイズコロナの秋 その2 
山下 勝治   
 2020/11/1 

さいたまの風景;曼殊沙華

 
泉名政信   
 2020/10/15  高尾山に行ってきました。

 (コロナと仲良くかつ対策もしっかり)

 川上 厚  
  2020/10/15   お疲れさま 泉名政信   
  2020/10/15   天城山初秋の風景 金井 文昭   
 2020/10/1 私の音楽鑑賞:
オンライン演奏会がきっかけで 
 泉名政信  
 2020/10/1  私の「フォト五七五」 
神無月 二題
    
牧 虎彦   
  2020/10/1  油絵 「模写2 」    大滝 恒雄  
  2020/10/1 私の写真いちおし 
ウイズコロナの秋   
山下 勝治     
 2020/9/1  油絵 「外国旅行 2 」    大滝 恒雄   
 2020/9/1  私の「フォト五七五」 
長月 二題
   
  牧 虎彦  
 2020/9/1  私の写真いちおし 
幻のイルカと遊ぶ  
山下 勝治    
 2020/9/1 

夏の思い出 「向日葵  

泉名政信   
 2020/9/1  私のフォト575 
季節の短信2020年 その4
 
藤井 正克     
  2020/8/15 油絵 「外国旅行1 」    大滝 恒雄     
 2020/8/15 新型コロナウイルスと
私の家族・仕事・友達  その4
 
金井 文昭  
 2020/8/1 油絵 「模写のこと 」     大滝 恒雄     
 2020/8/1  私の「フォト五七五」 
葉月 二題
  
 牧 虎彦  
 2020/8/1 私の写真いちおし 
お味は如何? 
山下 勝治   
  2020/8/1  

気の向くままに「古代蓮」

泉名政信   
2020/7/15  私の写真いちおし 
ショーの始まり々々
山下 勝治     
2020/7/15   新型コロナウイルスと
私の家族・仕事・友達  その3
金井 文昭   
 2020/7/1  【新-漢字小景–】 「男」と「女」  吉村 正(志田 唯史)   
  2020/7/1 私の「フォト五七五」 
文月 二題
   
 牧 虎彦   
  2020/7/1 油絵 「土蜘蛛2 」   大滝 恒雄     
  2020/7/1 私のフォト575 
季節の短信2020年 その3
 
藤井 正克    
  2020/7/1 私の写真いちおし 
ようこそおとぎの水族館へ」   
山下 勝治    
2020/6/15   音楽と情報通信技術(ICT)  泉名政信   
 2020/6/1

【新-漢字小景–】「士」と「漢」  

吉村 正(志田 唯史)     
2020/6/1  私の「フォト五七五」 
水無月 二題
  
 牧 虎彦  
2020/6/1 油絵 「土蜘蛛 」  大滝 恒雄    
 2020/6/1  私の写真いちおし 
「春を競う」  
山下 勝治   
 2020/5/15 油絵 「三吉山と蔵王 」 大滝 恒雄   
  2020/5/15 私の健康法  小枝正夫   
  2020/5/15  新型コロナウイルスと
私の家族・友達
 その2
 金井 文昭  
 2020/5/1  【新-漢字小景–1】 戒名と処女
吉村 正(志田 唯史)  
 
2020/5/1   私の「フォト五七五」 
皐月 
  
牧 虎彦   
2020/5/1   魅力ある水彩画 その14
佃島」 
 
 原田 祐夫    
2020/5/1    私のフォト575 
季節の短信2020年 その2
藤井 正克   
 2020/5/1  

新型コロナウイルスと私の家族・友達  

 金井 文昭    
 2020/4/15 


東京足立区新田の桜

金井 文昭    
 2020/4/1  私の「フォト五七五」 
卯月 
 
 牧 虎彦  
 2020/4/1  魅力ある水彩画 その13
「春を待つ(服部牧場)」 
 
原田 祐夫    
 2020/4/1  私の写真いちおし 
街角の休憩所」 
  山下 勝治  
 2020/4/1  カネライトフォーム  吉村 正  
 2020/3/1  私の「フォト五七五」 
弥生 題 
  牧 虎彦  
2020/3/1  魅力ある水彩画 その12
賑わい(銀座通り)」 
 
 原田 祐夫   
 2020/3/1  私のフォト575 
季節の短信2020年その1
 藤井 正克  
 2020/3/1  私の写真いちおし 
妖精春をよぶ」 
 山下 勝治  
 2020/3/1  ヨーロッパ旅行記 その6
「ドイツの思いで 」 
 金井 文昭   
 2020/2/15  韓国旅行の思いで
「伝統的結婚式風景」
 金井 文昭   
  2020/2/1  私の「フォト五七五」 
如月 題  
  牧 虎彦  
  2020/2/1  魅力ある水彩画 その11
「冬枯れの公園(井の頭公園」 
 原田 祐夫  
  2020/2/1  私の写真いちおし 
「え!食事中に喧嘩?」  
 山下 勝治  
  2020/2/1  ヨーロッパ旅行記 その5
「ウイーンの思いで 」 
 金井 文昭  
 2020/1/15  台湾旅行の思い出  金井 文昭   
 2020/1/1  私の「フォト五七五」 睦月 題   牧 虎彦   
  2020/1/1 魅力ある水彩画 その10静物「ラフランス」     原田 祐夫  
  2020/1/1  私の写真いちおし 「年の瀬の港」    山下 勝治  
  2020/1/1  ヨーロッパ旅行記 その4  金井 文昭   

私の写真いちおし  「ウイズコロナの秋 その3   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年11月10日

撮影場所:鎌倉 長谷寺

コメント:秋の長谷寺に行きました。ここでも新コロナウイルスの影響で和み地蔵さんもマスク姿でした。

 
   


油絵 「女性シリーズ 2 」     ー大滝 恒雄 

 

 「若い女性」

マチスの作品。マチスはほぼピカソと同時期の作家である。こういう絵もたまには気分を変えてみよう、とチャレンジしてみたが私にはこのような発想は生まれない。マチスもピカソと相いれず、袂をわかつことになる。 作品は気に入って、ずっと玄関に飾っているが、誰も感想を述べてくれない。それだけ自然になじんでいるのかなと勝手に解釈している

















   


私の「フォト五七五」 師走 二題   牧 虎彦

   
   


さいたまの風景;黄葉ーー泉名政信一ー

晴れた日の昼下がり、都内某所とは元より比ぶべくもありませんが、この光と空気を独り占めするたびに、何となく満ち足りた気分に浸れます。この時期は黄色が一番! 普段は忙しなく動き回る相棒の老犬ハナが神妙にポーズを決めてくれました。


 

20201031日撮影@大宮第2公園(さいたま市)



伊東富士見台散策コース ー金井文昭ー


伊東駅より海岸沿いに30分位歩くと魚市場につきます。海岸沿いでは休みの日は釣り人で賑わっていますが、平日はほとんど人はいません。そこから、南の新井地区に行くと急な坂道に集落がありますが、直ぐに人家もなくなり、林道に入ります。竹林は見事です。それから30分位坂道を上ると急に海が見えて来て晴れていれば富士山が伊東湾の向こうに見えます。この場所には座るベンチもあって景色と新鮮な海風を楽しむことができます。お勧めは魚市場の側にある”スーパー青木”でお寿司を買ってベンチで食べることです。スーパー青木は毎朝魚市場で魚を仕入れてさばいて出しています。東京での寿司とは全く違います。みなさんも是非晴れた平日に来て楽しんで下さい。林道に入ると人にあうことはほとんどありません。

   
   
   


私の「フォト五七五」 霜 二題   牧 虎彦

   
   


油絵 「女性シリーズ1 」     ー大滝 恒雄 

 

 

 

このヌードの絵はドガによるもので彼が死ぬまで枕元に置いて、門外不出の作品だが死後見つけられたので日経に掲載された。それを見て、描いておこうと思い立った次第。
ドガは「踊り子」など一瞬の動きを描くので知られている、パステルの名手だが、どんな気持ちでこの絵を見ていたのだろうか、気になる絵である。題は「入浴する女」。

 

これもドガの作品で題は「若い女」。パステルとは知らずに、「踊り子」を模写したが、油彩では色調がきつく、彼の柔らかな質感にはならなかった。彼はデッサンする際何百本の線を描き、その中から「これ」という線を見つけて描いたそうで、納得した記憶がある。








 
   


私のフォト575 季節の短信2020-5  ーー藤井 正克一ー

   
   


私の写真いちおし  「ウイズコロナの秋 その2   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年10月6日

撮影場所:横浜市旭区区 里山ガーデン

コメント:ガーデンネックレス横浜2020で秋の里山ガーデンフェスタに出かけました。ハローウインの魔女も今年はマスクでした。

 


さいたまの風景;曼殊沙華ーー泉名政信一ー

例年訪れていた日高市の曼殊沙華祭りが感染症対策のため中止と聞き、近所の彼岸花を物色しました。散策コースでもある見沼用水沿いにはボランティアの方々が手入れした四季折々の花が所々に群れています。道路にはみ出た1輪の天邪鬼を見つけたのでカシャ! 辺りにはお気に入りの株を見つけてはカメラを向けるご隠居たちがチラホラ。

 

2020930日撮影@見沼用水西縁り(さいたま市)




高尾山に行ってきました(コロナと仲良くかつ対策もしっかり)    
川上 厚 


 10/4の日曜日娘に誘われ3歳半の孫と一緒に高尾山に行くことになりました。

読者の皆様は約10年前に経験済みのことでしょうが、小生にとっては初めての孫との登山なんです。

 当日は朝5時に起床し京王線高尾山口駅に8時前に到着。空からは少し雨がぱらついていたが、予報では回復ということで出発した。行路をどうするか思案したが子供連れということもあり、オーソドックスな1号路を進むことにした。ひたすらアスファルトの続く道をゆっくり歩き、約50分ぐらいでケーブルの駅に到着。これでは山登りの醍醐味にならないと山頂までは4号路を登ことにした。途中のつり橋は孫が喜ぶかとおもったが意外にも泣き出してしまった。やはり土の道は感触がいい。登山靴はいてきた甲斐あり。約40分で山頂。孫のしっかりした足取りに安堵した。あいにく富士山は見えず。おにぎりを食べて一号路をケーブル駅に向かって降りた。途中は神社とお寺ばかり、紅葉にはまだ早い中、団子を食べながらの観光客で大層にぎわっていた。帰りはケーブルに乗って楽ちん、駅の近くのソバ屋でとろろ蕎麦を食べて帰路についた。午後1時には帰宅、半日がかりの孫との初登山でした。目指せクライマー!

   
   


お疲れさま 泉名政信

 

ここでは素焼きの植木鉢を組み合わせた二体一組の人形がそこかしこに配置され、訪れる人を出迎えます。猛暑の夏を乗り切った腕には怪我の痕も。健気です!

2020916日撮影 @花の丘農林公苑(さいたま市)

 



天城山初秋の風景 ー金井文昭ー


10月12日長雨が続き、台風のせいで風も強く、散策できない毎日が長引きましたが、今日は青天、窓から北の空を見ると薄雲はあるが、しっかり晴れている。というわけで天城山へ出かけました。伊東の仮住まいから東海バスで天城山直行、月曜日のせいか客は私一人。なんか悪い気がしたが、天城山ハーベストホテル前で下車 バスで小一時間。外を見ると”富士山が見えるでないか!ラッキー”とばかり、写真を撮っていると品の良さそうなご婦人が寄って来て、妙に話しかけ、全国各地のハーベストホテルの良いところを話し始め、思わず”ハーベストホテルのファンですか、。。。ひょっとしてオーナーですか、?”と問うとうなづいてさらに話を続ける。やや、うんざりして付近の散策に出かけた。朝11時について午後3時半まで帰りのバスがないということで道路を下りはじめ、色々なところで富士山が見え、また、秋の紅葉も始まりかけた景色を楽しむことが出来た。道路歩いている人は私ひとり、マスクも外して大いに自然を満喫できた。野路菊も各所に群生していてきれいでした。

   
   



私の音楽鑑賞:オンライン演奏会がきっかけで
ーー泉名政信一ー

 

私は今、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」第2楽章(ラルゴ)を聞いている。曲は厳かな金管の和音で開始される。ティンパニーが遠雷のように唸り、弦楽器群の弱音が背景を描く。お膳立てが整ったところでイングリッシュ・ホルンが「家路より」で知られるあのメロディを奏でる。クラリネット、フルートが応答する。「しみじみ」、「ほのぼの」、なんとも癒される瞬間である。長い自粛生活でオーディオ装置の前に陣取ることがルーチンとなり、この曲がほぼ毎日流れている。きっかけは、在京オーケストラの会員向けオンライン配信だった(※1)。井上道義のタクトのもと、日本フィルハーモニー交響楽団が、明快なリズムと共にたっぷりとした歌謡性を添えた音形を紡いでいた。この甘ったるさは自粛生活にとても合う。そこで、同曲の音源を手当たり次第集めて、「ラルゴ」だけを片端から流すようになったという訳である。

先ず、トスカニーニ指揮NBC交響楽団(1953年収録)を聴く。これはカライ!とにかく推進力あるのみ。といっても歌うところはちゃんと歌って小節をつける(なにしろ指揮者はイタリア人ですから)。なので、爽快さの中にちょっぴり甘さが薫る。頑固おやじが時折ハニカんでみせるといった風情か。次いで、ケンペ、バルビローリ、フリッチャイ、云々、計21種の音源が並ぶ(※2)。定盤はケルテスの2種(60年、66年)だろうか。巷ではウィーン・フィルを指揮した60年盤が超特選とされているが、ロンドン響との66年盤も若干異なる趣ながら甲乙つけ難い、と私は思う。カラヤンも3種(64年、77年、85年)ある。さすがカラヤン、いずれも満足度高い演奏。ただし、ラルゴの演奏時間がかなり振れている。64年盤は13分09秒、77年盤12分09秒、85年盤12分27秒。この差って何?(細かいことが気になってしまう悪い癖)。ん!私はこう推理した。1960年代半ば、カラヤンがベルリン・フィルをほぼ手なづけ終った時期、まだフルトベングラーの思い出がかすかに残っていた中、カラヤンが目一杯自己主張した結果が13分。70年代はカラヤンの円熟期、欧州の楽団を意のままに操っていた頃、地のままのカラヤンを出したのが12分。80年代、老境のカラヤンが自然体で振ったテンポが12分台半ば(パートナーはウィーン・フィル)。なんとも平凡な推論だなぁ。 そこで、21種の音源の演奏時間(第2楽章のみ)を比較してみたのが下図である。

やはり最短(最速)はトスカニーニ。ここで少々触れておきたいのが、フリッチャイとバーンスタインで、どちらも演奏時間が長い。フリッチャイは1958年白血病で倒れるが、その辺りから芸風が一変したと言われる。一時回復して演奏活動を再開したときの演奏の一つが知る人ぞ知るこの音源。一音一音をしっかりと刻みつけ、抑揚を大きくとった歌い回しは玄人好みなんだそうな。あのメロディに内在する哀愁が濃厚に滲み出し、じんわりと心に響く演奏である。バーンスタインも演奏時間が長く、21種で最長である。指揮台で飛び上がったり唸ったりしたという「レニー」らしく、開放的な音作りで、ティンパニーは遠雷ではなく、間近の落雷のよう。思い入れたっぷりの演奏は、もうクラシックではなく、ミュージカル?と錯覚しそうだが、その分、心の澱が流され、気分爽快、すっきりすること請け合いだ。

ドヴォルザークの作品は、21種の演奏の全てに存在価値を与えている。世の中に唯一無二などはない、これさえあればあとは要らないなんてことはない、多様性こそが現世だ!
テなことを呟きつつ、今日も10年物のスピーカーの前に座っている。

※1 https://members.tvuch.com/member/movie/

※2 21種のうち7音源(ワルター、クレンペラー、小沢、カラヤン(77年、85年)、テンシュテット、準・メルクル)は所蔵、1音源(井上)は演奏会視聴、他の13音源は下記サイト(パブリック・ドメインに帰す音源を公開)からダウンロードttp://yung.aki.gs/index.php 

 


私の「フォト五七五」 神無 二題   牧 虎彦

   
   


油絵 「模写2 」     ー大滝 恒雄 

 

 

 一番沢山模写を描いたのはピカソと言われている。ピカソに質問したところが「私の絵の方が、作品が生きている。だから独自の創作だ」といったとか言わなかったとか。フェルメールの時にはなかった、プルシアンブルー(青)が産業革命で大量生産ができるようになった。 (青いターバンの少女の時は宝石を砕いて高価な色だった。日本に持たらされ北斎の「富岳百景」に使われている。)
さて、この絵だが、ゴッホ(1853年―1890年、オランダズンベルト生まれ。37歳で自殺。「糸杉のある風景」、「跳ね橋のある風景」「自画像」などがある)の「ひまわり」で、贋作騒動が起きたが、キャンバスの麻糸がオランダのゴッホが使用したものとかで、鎮静化している。この頃から絵の具がチュウブで使われ、ふんだんに絵の具が使われるようになった思われる。

 

もう一つはミレー(1857年フランスのノルマンディ地方のシェルブールに生まれ、1875年没。)の「晩鐘」である。この辺の絵は皆差し上げて、写真しかない。ミレーは偉大な農村画家だったが十分に絵の具が買えず、安い「イエローオーカー」をいつも使っていたそうだ。私の絵は明るくて彼の重厚さには程遠いものになってしまっている。








 
   


私の写真いちおし  「ウイズコロナの秋   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年9月22日

撮影場所:横浜市戸塚区 舞岡公園

コメント:毎年この時期に行われている案山子祭り。今年はアンパンマンもチコちゃんも、見物の家族連れもマスク、マスク、マスクでした。

 


油絵 「外国旅行 2 」     ー大滝 恒雄 

 

この絵はペナンのホテルから見た風景。学生時代のクラスメートがマレーシアに長期ピザで長年居住している。有志が募って、慰問に行こうということになり1週間ほどゴルフ旅行に出かけた。当地は華僑の避暑地なそうで、ヤムチャが美味しく、安い。当地産のビールは安いが、日本のビールは高い。ゴルフも安いが、子供が川越えのコースで待ち構えてボールが水に落ちると我先に飛び込みボールを拾う(もちろんそれを売るため).貸しクラブが外人用で長過ぎるのには閉口した。当地は錫の生産地で土産に一輪挿しの花瓶を買った。

 

 

次の絵は中国の「紹興」の絵。現地には行ってないが、上海で同じ風景を見ている。クラスメートのN氏が撮った写真を拝借して描いたもの。戦争で子供を亡くした老婆が打ち沈んでいるのを若者が橋の上から見ているのは筆者のフィクション。
(俳句と絵は見てきたような嘘を言い)が許される世界なんです。

 上海は共産党の発祥の地なそうだが、香港、広州よりも食い物は安い。汚い食堂を探して食した「小籠包」が忘れられない。(今ではコロナが怖くてそんなことはできないけど)








 


私の「フォト五七五」 長 二題   牧 虎彦

   

酔芙蓉は早朝 10センチぐらいの美しい純白の花が咲きます、3時ごろになると その花がピンクに変色します、夜分にはしぼんで落花します。翌日には次のつぼみが開花して、二週間ぐらい楽しめます。今回は変色前の純白の酔芙蓉とピンクになった酔芙蓉とをセットです。  

 

 
























私の写真いちおし  「幻のイルカと遊ぶ   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年8月27日

撮影場所:川崎市 川崎水族館

コメント:川崎水族館は商業施設の売り場を改装した水族館です。そのため大量の水を扱う事が出来ないので様々工夫がなされています。イルカは映像ですが画面を触ると人と交流出が来ま

 



夏の思い出「向日葵」ーー泉名政信一ー

例年10万本が華を競うひまわり畑。今年は早々にイベント中止と決まり種も蒔かなかったという。なので、これは思い出の一枚。向日葵は花の成長期に太陽を追って首を振り、朝には東向きに戻るようです。開花に従って追尾動作が鈍り、遂には東を向いたままになるとか。正午間近でしたが見事に東向きの花で埋め尽くされていました。

2019年8月撮影 @清瀬ひまわりフェスティバル

 




私のフォト575 季節の短信2020-4  ーー藤井 正克一ー

   
   




油絵 「外国旅行 」     ー大滝 恒雄 

  この絵はドイツのハイデルブルグ城の対岸から写生している、老人を背後から写真に撮ったものを、諏訪部氏から頂戴した。それをコラボしたもの。女房とこの町には2日間、滞在してあちこち食べ歩いた.当所はお城から橋を渡り急勾配の道を30分程登った地点である。城壁から見下ろしたもの、砲弾で打ち砕かれた門なども作品にした。この他に北欧の最北端のノルウエー・オッタとか、スイスのユングフラウヨッホ、イタリー、台湾、ハワイなど行ったが、まだ絵にかかわっていなかったため、作品は残されてない

 

  もう一枚は「ノイシュヴァンシュタイン城」の絵である。デズニーランドのモデルになったといわれている。ルードビッヒ3世が贅の限りを尽くした城で国の財政が危うくなり、ボートで暗殺されたとされている。入場するのに雨の中1時間並ばされた。イタリアのウフツィ美術館は2時間だった。待っている間にイタリアの男性が日本人の女性ガイドを口説き、振られるとあっさりあきらめるのを目撃した。












 



新型コロナウイルスと 私の家族・仕事・友達その4ーー金井文昭一ー


今回はコロナウイルス感染の影響のもとで、私の家族、仕事、友達がどんな風に暮らしているか紹介の続きです。

スイス

スイスでは他の欧州諸国あるいは日本同様6月まで経済活動制限してコロナが収束しましたが7月に入り経済活動を開始し、大分感染が広がりつつあります。8月12日新規感染数は274人で人口は日本の10分の一以下ですから日本より厳しい状況です。
それでも、娘たちはイタリア旅行あるいはスイスアルプスへ出かけて外の空気を楽しんでいます。
(写真1グリンデルワルドより見たアルプスです。)

日本

私のバイオリンの先生S氏は旅行記好きでここ1ッか月の間に沖縄、北海道、鹿児島、名古屋と旅行を新婦と楽しんでいます。なにか、現在感染が広がっている地域で”感染大丈夫?という私の問いに”東京でも、地方でも感染は一緒だから、”という答えでやや唖然としましたが、決して例外的な若者というわけではない気がします。
3月より住み始めた伊東でも8月に入り、家族ずれが海水浴に、昆虫採集(写真右)にほほえましい情景です。 仕事も7、8月には幾らか入ってくるようになりました。これら一見関係ないようですが、
Go-Toキャンペインで後押しされていることと無縁ではなそそうです。


コロナ感染防止、治療

アビガンの治験が終了し、ようやく、承認の方向というニュ-スが入って来ました。”日本では感染者数は増加しているが、重症者・死亡者が少ない”とWTOより日本の取り組みへの賛辞が表明されています。ワクチンはアストラゼネカのワクチンでかなり規模の大きい試験で安全性・効果が認められ、日本でも今月臨床試験が始まりそうです。これがうまくいくと年内で試験が終了し、コロナの終息、来年のオリンピック開催も希望が出て来ます。長いトンネルの向こうの、ほのかなローソクの灯という感じです。(以上は全てInternet Exploreの記事です。)

   



油絵 「模写のこと 」     ー大滝 恒雄 

  勉強を兼ねて、息抜きに名画の模写をやる。そこには作者が苦労した跡が読み取れる。まず構図―絵の切り取り、絵の具の使い方、光の方向―明暗。などが参考になる。最初に絵でショックを受けたのはこのモネ(1840年パリ生まれ、父親は輸入食品販売、1927年没、「アルジャントイーユの夜明け」「傘をさす女」がある)の「睡蓮」を倉敷の「大原美術館」で見たときだ。私の頭の中では、塗り絵の延長でしか絵を捉えてなかったが、何と筆先に赤の絵の具をチョンと付けただけで睡蓮が立派な作品になっているではないか

 
もう一つは、フェルメール(1840年パリ生まれ。父親は仕立て職人。)「青いターバンの少女)、「牛乳を注ぐ女」などがある」のデルフトの眺望」である。日経の美術欄に白黒の、小さな写真が載っていたので描いてみた。友人に「ちょっと違うね」と言われ実物を観る機会があり、私が書いたのは夜明けと思ったのが昼下がりの雨上がりということがわかり、改めて20号に書き直し、うちの居間に飾っているものである


 


























 



私の「フォト五七五」 葉 二題   牧 虎彦

   
   


私の写真いちおし  「お味は如何?   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年7月20日

撮影場所:横浜 三渓園

コメント:

ボタンクサギの花の上で蜜を吸うモンキアゲハ(雌)を撮ることが出来ました。蝶の白い紋は日が経つにつれて黄色を帯びるとのこと。

 




気の向くままに「古代蓮」ーー泉名政信一ー

蓮の花は、朝のうちに開花し正午ごろ閉じます。開花4日目には散ってしまいます。写真の蓮は、3日目の開花を終えたところのようで、花弁の重なりが僅かに不揃い。閉じた蓮に趣を感じる年頃になってしまいました。

2020年7月16日撮影 @古代蓮の里(行田市)

 



私の写真いちおし  「ショーの始まり々々」   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年6月10日

撮影場所:東京都稲城市

コメント:

よみうりランドの一画にあるHANA-BIYORI館でのプロジェクションマッピングの一場面です。巨大な徳利に見えるのはパラボラッチョの木、推定樹齢400年とのこと

 


新型コロナウイルスと 私の家族・仕事・友達ーー金井文昭一ー

今回はコロナウイルス感染の影響のもとで、私の家族、仕事、友達がどんな風に暮らしているか紹介します。

スイス―バーゼル

バーゼルには娘はいますが、娘は3月にコロナに感染し、夫も5歳も家からほとんど出ない生活が3か月続きましたが、7月に入って近所の子どもと一緒に遊べるようになり、(写真左上)みんな元気でユネスコ世界遺産のベルニナ鉄道路線にある家族用のホテルへ出かけました。ヨーロッパというか若い人の感覚は大分違いますね。でも、とりあえず元気になって安心しました。


アメリカーニューヨーク

ニューヨークには仕事仲間のザカリーが住んでいます。一時はコロナも収束に向かう気配もありましたが、怖くなってロングアイランドの両親のうちに疎開しました。アメリカは何が起きてるのか、まか、不思議な国です。

伊東

私は伊東で暮らし始めてから3か月たちましたが、快適にやっております。伊東は海に面していますが、山が多く、散歩、ハイキングにはとてもいいです。(写真右上) やまには紫陽花は咲いています。(写真左下)。またZoomでの英会話教室に参加してかわいらしいヤンキー娘、ジェシカとの会話も楽しんでいます。(写真右下)。また、最近はonline seminarで講演をしたり、また、清水市の医療機器メーカーの顧問も始めほそぼそとですが、仕事も続けています。会社はとんでもなく、ひどい状態ですが、中小企業持続化給付金も、もらって一息ついているところです。

コロナ感染状況

コロナは最近また、全国的に増加しており、また、経済活動を進める方向に舵をきっていますのでしばらくは、安心できない状態は続きそうです。それでも最近重症者の減少は朗報です。あまりきちっと報道されていませんが、アビガン、レムデシプル、等の治療薬も使用されていることが治療成績を上げている可能性が指摘されていて、今後に期待しています。また、コロナワクチンの臨床試験も開始されました。これには品質管理の面で無償ですが、仕事仲間のT氏と供に、色々助言をしましたので成功を祈っています。
   
   
   


【新-漢字小景–】「男」と「女」   ー吉村 正(志田 唯史)

男は女の出来そこないでなる

「戒名」について書きはじめたら、いつの間にか「男と女」の話になっちゃいました。いや、嫌いじゃないので、このまま筆を進めますね。

 さて、私が敬愛する免疫学者・多田富雄さんの著作に『生命の意味論』があります。「男と女」について同書の一節を引用しますので、ちょっと長くなりますがおつき合いください。

 「人体が発生してゆく途上で、何事もなければ、人間はすべて女になってしまう。ある時点で、貧弱なY染色体が、たったひとつの Tdf(精巣決定因子)という遺伝子を働かせることで、無理矢理男の方に軌道修正して男という体を作り出す。その上、脳の一部を加工することによって、もともとは女になるべき脳の原形から男の脳を作り出す。/人間の自然体というのは、したがって女であるということができる。男は女を加工することによって、ようやくのことに作り出された作品である。男らしいというさまざまな特徴は、したがって女からの単なる逸脱に過ぎないのである。身体的な自己を規定する免疫系からみても、男は女にとって異物であり、排除の対象なのである。男の中には、必ず原形としての女が残っているので、女を排除することはできない。/こうした生物学的にハードな事実が、社会的にみた男女の差に強く反映されていることを否定することはできない。そればかりか男女という存在自体が、こうした生物学的基礎に支えられているのではないだろうか。/私には、女は『存在』だが、男は『現象』に過ぎないように思われる」

 これを読んだとき、「あ、オレって現象なんだ」とヘンに納得しました。もちろんこの論説に反対する向きもあるでしょうが、単なる野卑や粗暴さを男らしさと勘違いしているバカが多いのも事実です。

 ちなみに、多田さんは脳梗塞を発症して半身不随の身となり、『寡黙なる巨人』というすさまじい闘病記を著しましたが、同じ病気で(四肢は動くものの)脳の一部が溺死した私は、涙しながらこの本を読んだものです。発語もままならない身で氏はポツポツとワープロを打ちながら執筆活動を続けましたが、その後前立腺癌で逝去されました。 

男は田ぢから、女は「め」ぢから

前段が長くなってすみません。では、「男」と「女」いう漢字の字源(ルーツ・成り立ち)を見てみることにしましょう。

 ちょっとその前に。私たちが漢字と呼んでいる文字は、大きくいって二つに大別されます。一つは最初の段階で作られた単体の漢字で、これ以上分解することができない漢字。たとえば山・川・水・火、口・目・石などで、「女」もこの一つです。もう一つは第一段階で作られた漢字を組み合わせて作られた複合体としての漢字。たとえば、峯・河・泳・遊・鼻・岩などがあり、「男」ももちろんその一つです。で、中国の文字学では前者を「文」、後者を「字」といいます。はい、二つ合わせて「文字」となるわけですね。

 さて、「男」は「田+力」で構成された漢字で、「田」は耕作地(古くは狩猟する地域も田と呼ばれていました)。ちなみに、日本では田は水田の意ですが、中国では田と畑(畠)を区別しません。というか、「畑」も「畠」も日本で作られた和製漢字なんです。

 中国最古の漢字辞典『説文解字』では、「力」を「筋なり」、「筋」を「肉の力なり」とし、多くの漢和辞典も「腕に力を入れている象形」と解いています。ほかに「力」を「耒(すき)=鋤」の形と捉える説などもありますが、まあ、「男」は「力仕事をする者」をあらわす漢字と考えればいいでしょう。

 余談ですが、勇気の「勇」という漢字は「マ+男」ではなく、「甬(よう)」と「力」の合成漢字で、「男」とは関係ありません。

 ところで、男ってヤツは一杯飲むと、「オレらが望む女は、漢字の《女》ではなく、ひらがなの《おんな》だよなあ」てなことをぬかしますが、「女」は下図のような象形から作られた漢字、つまり、女性が手を前にそろえ、ひざまずいている姿を写し取ったものです。甲骨文字に描かれたこの女性から、みなさんは楚々としたしとやかさを感じませんか?

 ちなみに、ひらがなの「め」は「女」という漢字の草書体から作られ、カタカナの「メ」も「女」漢字の一部を省略して作られたものです。かつて三つ指をついて「お帰りなさいませ」と夫を出迎えた(と遠い遠い昔話に聞く)女性像は、漢字にもひらかなにもカタカナにも、男の羨望が深く息づいていたわけですね。

(次回はもう少しきわどいお話をしますので、ことに男の方はお楽しみに。)(了)
 

 


私の「フォト五七五」 文 二題   牧 虎彦

   
   


油絵 「土蜘蛛2 」     ー大滝 恒雄 

「土蜘蛛」は行動的でいたるところに出没して、いろんな人物と交友を交わす。この土蜘蛛は何故か蔵王の「三階の滝」から這い上がってきた。蔵王の御釜から2km仙台の方へ下ったところにある滝で、3段に181mの高さを流れ落ち、時折鷲が飛び交う名所である。

 もう一枚は静岡県 修善寺の「浄蓮の滝」の滝壺から飛び出してきた土蜘蛛で、このころから、筆者が坂道で息切れするようになった。このほかに「美ヶ原に美女と戯れる土蜘蛛」、「アフリカの飢餓状態の赤子を抱くヘップバーン」、「シテの頼光をバックから描いた舞台」などがあるが、又の機会に紹介したい。
 次回は皆さん「ああ、あれか!」とご存じの模写の絵を紹介する。

   
 


私のフォト575 季節の短信2020-3  ーー藤井 正克一ー

   
   


私の写真いちおし  「ようこそおとぎの水族館へ」   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年5月28日

撮影場所:東京都中野区

コメント:

中野駅周辺の鉄道高架の壁には沢山の絵が描かれております。今回はその中でおとぎの水族館をモチーフとした所を選びました。

 


音楽と情報通信技術(ICT)ーー泉名政信一ー

ここ3ヵ月ほどは桜や藤をまともに鑑賞できず、薔薇と菖蒲は蕾が刈り取られてしまったので、写真機は防湿ケースで眠ったままだった。やむなく、買い貯めたCDを少しずつ聞き返す日々を過ごした。ベートーベンの交響曲では、ワルター、カラヤン、クリュイタンス、ヨッフム、イッセルシュテット、朝比奈、バーンスタイン、スイートナー、マズア、アッバドなどの盤を聞き比べて勝手に批評家していた。音楽には脳内ホルモン分泌に作用する効果があり、心を落ち着かせ、時に鼓舞することから、巷でも自粛疲れを音楽で乗り切ろうという企画が多数現れた。「うちで踊ろう」では時の総理の行動が話題になったりもした。よし、CDを聴きまくるぞ!と決意を固めたそんな折、新日本フィルハーモニーのテレワーク・コンサートに遭遇した。NHK(Eテレ)の「らららクラシック」で、60名の団員がそれぞれの自宅から演奏するウィリアム・テル序曲(ロッシーニ)が放映されたのだ。チェロの重奏が夜明けを告げた後、嵐の襲来があり、再び静けさが戻ってしばらくすると、金管のリードで行進曲へと突入し次第に高揚していく、曲自体の愉悦感もさることながら、演奏家たちがモニター画面を通して互いの音と動きを確認しながら必死に音楽を紡ぐスリルがなんとも堪らなかった。ただし、リハーサルがたいへんだったらしい(そりゃそうでしょう、NG場面がYouTubeに投稿されている)。その甲斐あってか、曲後半の怒涛の合奏も破綻することなく、奇跡とも言える演奏が終わった時の爽快さは近頃忘れていた感覚だった。

おぉ、これは音楽とICTのコラボの賜物だと即座に悟った。音と映像がほぼタイムラグ無しに共有されてこそ、この演奏が成り立つ。ICTがいつの間にかこんなところに入り込み、新しい楽しみ方を提供している。新型コロナ騒動の中、これを利用してみようと思いついた人がいるということだ。これを一過性の余興に終わらせて欲しくない・・・と思っていたら、「超低遅延ライブ配信機能、タイムラグは最小0.5秒台に」という記事(2020年6月3日、ITmedia)が目に留まった。「まるで目の前で会話をしているようなインタラクティブ体験を楽しめる」とある。演奏者と聴衆が離れた所にいても同じ時間軸でライブを楽しめる、しかも双方向で!これだ、これだ、ビデオ会議やオンライン飲み会で感じる微妙なタイムラグも気にならなくなるに違いない。ソーシャル・ディスタンスが求められる中、こんな接し方が日常になるのかも・・・。

この先、以前と同じ生活は戻ってこない。世界経済は全治2年の重症という説もある。が、一方で、このように「技術」で打開しようとする動きが大小様々に行われていることを思うと、少し気が楽になるように感じる。期待しよう。さあ、次はチャイコフスキーだ

おっと、もう6月、紫陽花のシーズンだ。ぼーっとしている場合ではない。緊急事態宣言も解除になったので、気晴らしに近所の公園へ繰り出した。浮世の空気を大きく吸い込んで、久しぶりに写真機に仕事してもらった。そのときのショットがこちらです

   
   


【新-漢字小景–】「士」と「漢」   ー吉村 正(志田 唯史)

●「~士」はもともと男の職業だった

 先の原稿で、「戒名」にある「居士」とは仕官しないで「家に居(お)る男」のことだ、と述べました。仏教でももともとは在俗の(つまり出家しないで家に居る)男性仏教徒のことを居士と呼びます。要するに「士」とは、「男」を意味する漢字だったわけです。

 日本で「士」といえば、狭義には「武士・さむらい」のことですが、中国では学問や道徳を修めた一人前の男を、「有徳の士」「高潔の士」のように、敬意を込めて「士」と称していました。今では「男女」といいますが、昔の中国では「士女」という言葉が一般に用いられていたんです。

 あ、子女教育の「子女」ではありませんよ。ちなみに「子女」には、「男の子供(息子)と女の子供(娘)」という意味(たとえば「帰国子女」)とともに、「若い女性」(たとえば「良家の子女」)という二つの意味があります。

 さて、中国も日本も長いあいだ男中心の世界でした。そのため、職業に関する呼称は基本的に男をさします。今でいう「弁護士」「会計士」「文士」「代議士」「消防士」等々、「士」がついている職業はもともとは男が就くものでした。だから女性の場合は、「女性編集者」とか「女流作家」のように、わざわざ注釈語を補うわけです。現在も「~士」という漢字の語感には、この名残が附着していますよね。

 ところで、逆にかつて女性専科であった「看護婦」という職業に男が進出し、「看護師」という名称になったのはご承知のとおりです。そういえば、「教師」や「医師」などにも性差をあらわす名称がありませんね。だけどこれは決して、明治期以降に多くの女性医師や女性教師が輩出したから、というわけではありません。

 たしかにシーボルトの娘・楠本イネは、明治四年に築地で開業しましたが、同八年に医術開業試験制度が始まったとき、女性であるイネに受験資格がなく、郷里の長崎に帰ってその後産婆さんになりました。日本における最初の女医・荻野吟子は明治十八年の開業。そうそう、『二十四の瞳』に出てくる「おなご先生」は昭和初期の女性です。

 ところで、産婆さんはかつて助産婦とも呼ばれていましたが、現在は「助産師」という名称に変わりました。ただし日本では、助産師国家試験の受験資格が女性のみとなっているため、助産師は今のところ女性しかいません(米英や濠州には男の助産師もいるそうです。勇気のあるヤツですねえ)。

 

●痴漢は男の専売特許

 男を意味する漢字には、ほかに「漢」があります。悪漢、暴漢、凶漢、酔漢、巨漢、大食漢……、これらはもともとみんな「男」を意味していました。いや、いい意味の言葉ももちろんありますよ。好漢、硬骨漢、熱血漢、無頼漢……なんかがそうですね。

 もっとも、「彼女は法律の門外漢のクセに、何かと僕の提案に口を挟む」というように、今ではニュートラルな意味でこの言葉が使われますが、元来は専門外の「男」のことでした。トンチンカンに「頓珍漢」の漢字を当てることがありますが、こっちの「漢」に男の意はありません。

 おっと、典型的な「漢」を忘れていました。そう、痴漢です。これは卑劣な「男」の専売特許。言わずもがなですが、女の場合は痴漢ではなく痴女といいます。

 意味のうえで男をあらわす漢字に「俠」があります。浅田次郎さんの小説では、「五郎は男の中の俠(おとこ)を追い求めていたのだった」(『椿山課長の七日間』)というふうに、わざわざ一般の「男」との対比で「俠」の漢字をあて、「義侠心」や「男気(おとこぎ)」といった意味を附与しています。うまいですねえ。

 ただし、「男気」と書いても「おとこげ」と読む言葉があるので要注意。これは「おとこっけ」のことで、ある女に「男がいること」あるいは「男がいる気配」の意です。女性が「ほんに、男気のない部屋だねえ」と、相手の女性をからかう場合などに使います。(了)  

 


私の「フォト五七五」 水無月 二題   牧 虎彦

   
   


油絵 「土蜘蛛 」     ー大滝 恒雄 

 絵のテーマを探していたら、目に入ったのが日経の最後のページの美術欄の「土蜘蛛」であった。世界で一番みっともないお面とのこと。それでは一番良い男に描いてやろうと取り組んだのが、「土蜘蛛シリーズ」となる。原点は黒川(山形県鶴岡市)能である。年を経た土蜘蛛が妖怪に変じ、村人に害をなすところから源頼光が退治に赴く。逆に糸に絡められ大ピンチ。名刀「膝丸」で糸から逃れ、退治に成功する。  本物のお面や衣装を見たくて鶴岡の「王妓会館(黒川能の保存)」に出向いたが、虫干しの時でなければ年に一回しかお目にかかれないとのこと。  案の情、出展すると女の人は皆素通り。2006年の作品だが、近年「あの土蜘蛛が懐かしい」と感想が変わってきた。  
   
   


私の写真いちおし  「春を競う」   ーー山下 勝治ーー 

撮影月日:2020年4月8日

撮影場所:横浜公園

コメント:

今年は新型コロナウイルスの影響で横浜公園のチューリップ花壇も縮小されやや寂しくなりましたが、春の盛りを競っておりました。

 


油絵 「三吉山と蔵王 」     ー大滝 恒雄 

 油絵は2003年に始めた。水彩やクレパスを描いていたが、どうしても思うような色が出ない。思い切って川口起三雄氏の油絵の描き方8巻のビデオを買って、イチから始めた。ビデオの発売元から他流試合にチャレンジしませんかの誘いを受け、「日美展」に出展したところ、「日美賞」をもらった。その時に描いたもので「三吉山と蔵王」と題した。正面に描かれているのが三吉山で500メートルほどの高さ。奥が蔵王で車で頂上まで1時間弱。女房の実家が上山で居間からこの景色が見て取れる。帰省した時、義父と夕焼けを見ながら、庭先の義父の自慢の陶器の椅子とテーブルで枝豆をつまみに、ビールで乾杯したことを思い出す。
   
   


私の健康法   小枝正夫 


以下の文は2014年に始まった最初の自由投稿で故小枝正夫様の投稿です。過去の自由投稿欄に含まれていませんでしたが、共同編集者の川上さんが見つけ、また、健康法として大事なことが含まれていますので、ここに載せました。写真中央の方が故小枝正夫様です。(編集者注)

私の健康について取り立て云う程のことはありませんが、ご依頼がありましたので一言お伝えします。私は今年4月86歳になりますが、これまで一度も病気で入院したことはありません。健康に気をつけたことは次の様なことです。 

(1)  日常の生活を規則正しく行うことです。一日三食の時間を出来るだけほぼ同じ頃とる様心がけています。 

(2)  食べ物は好ききらいが全くなく何でも食べる様にしています。 

(3) アルコールは何でも飲みますが、毎日夕食時に日本酒にして一合程度です。 

(4) 毎年4月頃に定期健康診断を受けて体調状況を見る様にしています。

健康診断は必ず毎年受けたほうがよいと思います。

(5) 体力を維持するため、入社時(昭和26年)に始めたテニスは現在まで続けています。(テニスクラブでは最年長です)現在も週2~3回会員制のクラブへ行っております。

(6) 定年後はひまな時間が多くなりますので何か趣味をもつことが大切だと思い、いろいろ考えましたが59歳で自動車の免許をとったり、水彩画を習ったりして出来るだけ家にいる時間を短くしていました。色々な人と接するのが大切です。 

                                                           以上 
 


新型コロナウイルスと 私の家族・友達 その2ーー金井文昭一ー

 日本全国的に新型コロナ感染者数が減少し、また、重症な患者に効くレムデシプルが承認され感染初期に効果のあるアビガンも今月中に承認されるようで明るい兆しで出来ました。私の家族ではスイスにいる娘がPCR検査で陽性と判定され心配しています。3月中旬に発熱が続いたあたりで、感染したようですが、スイスでも年齢が若いので検査基準に達していないということで、その時は検査してもらえませんでしたが、最近ようやく検査してもらえたようです。幸いに夫も息子も陰性で娘も至って元気にしています。この娘の強い勧めで私は妻と、ともに緊急事態宣言の出る前の4月始めに伊豆の伊東にアパートを借りて住んでいます。アパートの裏は幼稚園の庭というより森ですが、リスがいたり、鶯がさえずったりしてなかなかいいところです。近所のリサイクルショップで囲碁セットをゲットし、来る日に備えて勉強しています。写真は囲碁セットをおいた部屋と近所の由緒ある温泉“東海館”です。
   
   


【新-漢字小景–1】 戒名と処女    ー吉村 正(志田 唯史

 【新-漢字小景–1】 戒名と処女 

●ああ金ウン千万円の大居士と大姉

 若いころ、戒名なんて他人事だと思っていました。
ところが十数年前に父親が脳梗塞で倒れ、その後母親も脚を傷めて相次いで介護施設に入所したのですが、その折
二人から「亡くなったら〇〇寺院に納骨してくれ」と頼まれ、にわかに葬儀や納骨、戒名のことが現実味を帯びてきたのです。そんなとき出合ったのが、芥川賞作家・高橋千代綱さんの「本日も楽天日和」というコラムの一つ、「釈遊天とは誰のことか」でした。

これは東スポに掲載されていたエッセイですが、ちょうど小職も同紙に「女漢字のルーツ」っていうエロっぽいコラムを連載していたので、たまたま目についたわけです。
さて、高橋氏はご母堂の戒名を氏自身がつけたことを打ち明け、その理由を次のように綴っています。かつて父親の葬儀の折、住職として数々の無礼な行いがあったにもかかわらず、戒名代として百五十万円もの大金を請求してきたその住職に対し、母親から「あの坊主にだけは自分の戒名をつけてもらいたくない」と依頼されたからだと。
高橋氏はこう続けます。「そもそも戒名はつくらなくてはいけない、と法律で決められているわけではない。坊さんにつけてもらうべきだとも決められてもいない。葬儀のとき、戒名が位牌に記されていないと格好がつかないのでつくられたものである」と。なるほど、そうなのかと膝を打ちましたよ、僕は。で、高橋氏が自分自身につけた戒名が、コラムの題名になっている「文生院釈遊天居士(こじ)」だそうです。さすがに文士ですね。「天に遊ぶ」とはなかなかいい。ちなみに、高橋氏が芥川賞を受賞した本の題名は「九月の空」でした。
ここで有名人の戒名を記せば、夏目漱石は「文献院古道漱石居士」ですが、芸能人では石原裕次郎が「陽光院天真寛裕大居士」、美空ひばりが「慈唱院美空日和清大姉」と、それぞれ「大」の字つきの十文字。このお二人、巷では戒名代としてウン千万円支払ったとも言われています。 

●始めは処女の如くあとは脱兎の如し

 ところで、そもそも「居士」とはいったい何なのでしょう。実は文字どおり「居(お)る士(おとこ)」をあらわす中国語なんです。どこにいるのかというと、出仕しないで「家に居る」。つまり、中国では立身出世の代名詞である役人にならない男を「居士」と称したわけです。 日本にも「一言居士」という言葉があります。いますよねえ、何事につけても何かひとこと言い添えねば気がすまないという御仁が。「謹厳居士」なんてのもその一つですね。同様に、自分自身を〇〇居士と称することも。
よく似た言葉に「処士」があります。「いる(居る・処る)」という意味は一緒なんですが、ニュアンスがちょっと違う。「居士」は役人になるだけの知性や教養はあるけれど、役人なんかまっぴらだと俗世間を離れ、詩歌を愛するなど、田舎に引きこもって悠々自適の生活を送っているような男。一方「処士」は登用試験に落ちるとか家庭の事情などで、官吏になりたくてもなれなかった男、といった違いですね。 で、この「処士」の対義語が「処女」なんですよ、実は。そう、お嫁に行かずに家に「いる(居る・処る)女」が「処女」なんです。日本語では「未通女」と書いて「おぼこ」と読ませ、「うぶな娘」の意にも用いますが、本当に通じてないのか(生娘なのか)どうかは基本的に自己申告ですから、男にはちょっとわかりません。だから女性は男の前では「処女」のように振る舞えばいいんですよ、いつも。男なんてアホなんですから。
孫子の兵法にも「処女」という言葉が出てきます。「始めは処女の如く、敵人戸(こ)を開くや、後(のち)は脱兎(だっと)の如くにして、敵は拒(ふせ)ぐ及ばず」と。(敵陣の近くでは世間知らずの娘っこのように、しおらしく振る舞って好機の到来を待ち、敵が油断して侵入口を少しでも開いたら、あとは脱兎の如く敵陣に攻め込めば、もはや敵はこれを防ぎようがない)。
すごいですねえ、孫子の兵法は。ここから生まれた四字熟語が「処女大敵」、じゃあなくて「処女脱兎」。日産自動車のブランド名「ダットサン」も、この「脱兎」に由来するそうです。(了)

 


私の「フォト五七五」 皐月 二題   牧 虎彦

   
 
   


魅力ある水彩画 その14 ーー原田祐夫ーー

タイトル 「佃島」

 

大阪の摂津にルーツのある佃の町は、江戸の風情の残るところです。湾岸の高層ビルに雰囲気を壊され、風前の灯火となっています。

原田さんは会員になっている武蔵野スケッチ同好会を毎年五月に聖蹟桜ヶ丘で開催しています。今年はコロナで9月に延期になりましたが開催の折にはお知らせしますので原田さんの絵画見たい方はおたずねください。/編集者注

   


私のフォト575 季節の短信2020-2  ーー藤井 正克一ー

   
   



新型コロナウイルスと 私の家族・友達ーー金井文昭一ー

  新型コロナウイルス感染の影響を受けて生活の仕方も相当に変更を余儀なくされています。 今日は世界にいる私の家族や仕事仲間の生活をお話し、します。

スイス バーゼル
娘がロシア系スイス人のAlexey Veligodskiyと5歳の子マークと暮らしています。二人とも製薬関係の会社に勤めていますが、今は完全に在宅で仕事をしており、家族以外の人とは物理的に全く接触していません。それでも2年前に買った家の庭を活用して家族での生活を楽しんでいるようです。イースターマンデー (祭日)には赤ワインのシチューを娘が作り、ワインを飲みながら庭で楽しんだそうです。また、音楽も教えているようです。写真はバイオリンを手にする娘とマークです。

ロシア モスクワ
モスクワも完全に外出禁止のようです。Alexeyの両親はモスクワに住んでいますが、Alexeyの父からVeligodskiy家の家系図を作っているということで金井家もVeligodskiy家の家系図に入れるので家族歴を送るように言われましたが、私の母の母の生まれた時の姓名と年を聞かれ今調査中です。外に出られないので色々することを探しているようです。Veligodskiy家には99歳になるAlexeyのおばあさんがいて、今年は100歳です。私の親戚で100歳になるのは始めてです。

米国 New York
New Yorkには仕事の仲間で1996年LiposorberのFDA承認を取って以来一緒に仕事をしているDeno Zacharyがいます。New Yorkも完全にLock Downされており、食料品と薬を買う以外は外出できないそうです。買い物は市内では人との距離を取るため難百メートルも並ぶ必要があるので車で朝早く郊外で買い物をするそうです。最近Zoomで会議をする機会があり、写真はその時のものです。Zoomは会議をするにはskypeよりも便利そうです。

 



東京足立区新田の桜ーー金井文昭一ー

私の住んでいる足立区新田は隅田川、荒川の三角州です。大変な世の中になって来ましたが今年も桜の花は咲きました。3月26日近所の隅田川沿いの公園の桜は満開になりました(写真上左)が4月1日結構雪が降りました。(写真右上) 今年は春も寒暖の差が大きいです。そして荒川沿いにある八重桜(五色桜というそうです。)が咲き始めました。
(写真下)

   
   
   


私の「フォト五七五」 卯月 二題   牧 虎彦

   
   


魅力ある水彩画 その13 ーー原田祐夫ーー

タイトル 春を待つ(服部牧場)

 

圏央道相模原ICより15分ほどのところにある服部牧場は、神奈川県の"こじんまり"とした牧場です。入場は無料で、小さな売店・休憩所もある優しい牧場です。桜にはまだ早い3月はじめに出かけて描いたものです。近くには宮ケ瀬ダム公園もあり行楽シーズンには賑やかになります。 


   




私の写真いちおし  「街角の休憩所」   ーー山下 勝治ーー 


 

撮影月日:2020年3月19日

撮影場所:東京都渋谷区

コメント:
渋谷はガード下を始めとしたストリートアート街 今回は街角での一風景

 
 

カネライトフォーム  ーー吉村正ーー

先般、女房運転のクルマで「岡本太郎美術館」(生田緑地)へ行ってきました。出口付近で大きな作品が眼にとまったので近づいてみると、なんとカネライトフォームで作った造形作品ではないですか!ご存じのようにオリジナルは青木繁の「海の幸」(写真上)。造形品はこの作品に対するオマージュ芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事/編集部注で、丸山喬平氏の「幸について」でした(写真下左)。鮫と思える巨大魚と、床に敷いてあるものはスタイロフォームですが、あとはすべてカネライトフォームです(写真下右)。当方、大阪工場で働いていたころ、こいつの製造に半年間携わっていました(その後の1年間はM系の塩ビで仕込みをやってました)。あのころは建築業者に「黄色いスタイロフォーム」と呼ばれてましたっけ。何だか懐かしく、写真に収めた次第です。 

 
     


私の「フォト五七五」 弥生 二題   牧 虎彦

   
    


魅力ある水彩画 その12 ーー原田祐夫ーー

タイトル 賑わい(銀座通り)

 

昨年秋、歩行者天国の賑わいをスケッチしたものです。こんな風景が早く戻ってきてほしいものです。 


    



私のフォト575 季節の短信2020-1  ーー藤井 正克一ー

   
     


私の写真いちおし  「妖精春をよぶ」   ーー山下 勝治ーー 


   



撮影月日:2020年2月4日

撮影場所:東京中央区日本橋室町

コメント:
実体モデル、プロジェクション
マッピング等を駆使した体感型
アート、フラワーズ・バイ・ネイキッド
ー桜ーの1場面をお送り致します。

    


ヨーロッパ旅行記 その6ーー金井文昭一ー

「ドイツの思いで」

先月はウイーンのお話しをしましたが。ウイーンから娘のいるスイス バーゼルに戻ってじっとしていられない性分で今度はドイツに出かけました。バーゼルから一番近い町はフライブルクでドイツ鉄道のローカル線に乗って、一時間程度で着きます。途中は平らな土地ですが、右手の方に丘が見え、そこまでぶどう畑が広がっています。このあたりはドイツワインの産地です。フライブルクはシュバルツバルト(黒の森)という南北の森林の西南端に位置して町の東の丘に登ると町が写真のように一望できます。町に降りて来たら、大きなオートバイに乗った結構なお年のグループがたむろしていました。写真はそのオートバイの勇壮です。ドイツは町を歩ていても、日本と同じくらい安心していられます。言葉の問題とあとは人がとても親切で丁寧な対応をしてくれます。

   
     


韓国旅行の思い出  「伝統的結婚式風景」 ーー金井文昭一ー

 先月は台湾旅行の思い出を書きましたので、今月は韓国旅行のお話しをします。私はチャンバラ時代劇が好きで、小学校時代は東映の時代劇を良く見に行っていました。最近チャンバラが少なくなりましたので、10年くらい前から韓国の時代劇を良く見ていました。それで一時は韓国に年4回も行って、歴史ある建造物を見ていました。数年前にソールで伝統的な結婚式に出くわしました。カップルは学校の先生で生徒がたくさん来ていました。礼服に身を着てかごに乗っているのは花嫁さんで花婿さんはかごの前を歩いています。のどかな風景でした。
   
   
   




私の「フォト五七五」 如月 二題   牧 虎彦

   
    


魅力ある水彩画 その11 ーー原田祐夫ーー

タイトル 冬枯れの公園(井の頭公園

  12月から2月の野外スケッチは耐寒訓練です。小春日和の日に当たれば問題ありませんが、往々にして修行のごとき様相となります。それもまた野外スケッチの面白さかもしれません。今月の絵は12/19に井の頭公園で描いたもので、朝から北風で昼前には氷雨という最悪のコンディションの中での一枚です。
    

私の写真いちおし  「え!食事中に喧嘩?」   ーー山下 勝治ーー 

   

撮影月日:2020年1月6日

撮影場所:横浜市戸塚区柏尾川

コメント:川鵜が3、4羽とコサギが20,30羽が集まる滅多に見られない機会に恵まれました。川鵜が泳ぎ小魚が逃げ惑うのを狙ってコサギが動いておりました。そこで餌を巡って小競り合いが。

    

ヨーロッパ旅行記 その5ーー金井文昭一ー

「ウイーンの思いで」

今月はモーツァルトの生誕地で音楽の都ザルツブルクから向かったウイーンのお話しです。鉄道は在来線でローカル鉄道が走っているのと同じ線ですが、時速230kmと新幹線並みで、しかもほとんど揺れを感じないのには感心しました。ウイーンではドナウ河畔のホテルに泊まり、美しき蒼きドナウを楽しみました。ゴッホの絵のようにまっすぐに木が空に伸びていました。そして、大きな教会で演奏会があり、ビバルデイ四季、アベマリアでバイオリンの演奏と美しい、ソプラノを楽しみました。ウイーンは観光客で賑わっていましたが、日本人の方もとても多く、安心して観光できる町でした。ひとつだけ、ご注意、電車に乗る時改札はないのですが、たまに見回りが来て、切符を所持していないと罰金をとられます。演奏会の帰り、切符がなかなか見つからず、冷や汗をかきました。

   
 

 





台湾旅行の思い出ーー金井文昭一ー

 去年11月台湾観光に行きました。今回は台北から新幹線で高雄まで行くのにツアーに参加しました。リップサービスもあるんでしょうけど、台湾人はとにかく日本人びいきなのにはびっくりしました。韓国も良く行きますが、まったく対照的です。この理由をガイドさんが説明していました。“とにかく日本統治の後に蒋介石がやって来て20年近く戒厳令がしかれ夜は自由にあることができず、とても不自由で日本統治時代を懐かしむ風潮があったのが原因である。”と言っていました。写真はツアーで行った高雄の英雄を祭る忠烈祠ところです。台湾は初めてでしたが、何か東京のアメ横みたいな雰囲気を感じました。台北のオートバイの親子3人ずれにはびっくりしました。何と言ってもすばらしいのは故宮博物院で特に赤サンゴは美しかったです。

     
     
 

私の「フォト五七五」 睦月 二題   牧 虎彦

   
    


魅力ある水彩画 その10 タイトル 静物『ラフランス』 ーー原田祐夫ーー

「静物画」はあまり描かないのですが、厳寒の時期や酷暑のころは室内で絵筆を持ちます。今回はラフランスと蔓のある烏瓜のモチーフにしました。
   

私の写真いちおし  「年の瀬の港」   ーー山下 勝治ーー 

 

撮影月日:
2019年
12月21日

撮影場所:横浜市 横浜港

コメント : 横浜港では帆船日本丸も電飾され、中小の遊覧船も電飾を競っていました。

   


ヨーロッパ旅行記 その4ーー金井文昭一ー


今月はスイス国境に近い、モーツァルトの生誕地で音楽の都ザルツブルクです。ここは中世商業の中心地です。ウイーンから汽車で2時間程度ですが、平野から丘陵地帯に入る場所にあります。音楽の都というだけあって色々な場所で演奏をしていました。私は写真のチェンバロの演奏を楽しみました。ザルツブルクを治めていた王侯はいたづらが大好きで水を用いて客を驚かせるのが趣味だそうで写真はその城の風景です。日本人にも大人気で日本人らしい人にたくさん出会いました